鹿鳴館
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鹿鳴館(ろくめいかん、旧字体:鹿鳴館󠄁)は、1883年(明治16年)に日本の外務卿・井上馨による欧化政策の一環として建設された西洋館である[2]。
注釈
- ^ 欧米への留学や在外公館での勤務・在住経験のある日本人(井上馨夫妻や鍋島直大・榮子夫妻、大山捨松など)はそうした流儀を身につけていたが、ごく一部にとどまった。
- ^ 日本徴兵保険はその後、大和生命保険を経て、2018年現在はプルデンシャルジブラルタファイナンシャル生命保険として営業している。
- ^ 1940年3月10日、東京日日新聞に「鹿鳴館一部保存 生きた明治史の記念」という見出しで掲載された記事にいきさつが記述されている。
- ^ また、鹿鳴館の取壊しに立会ったひとりに菊地重郎(博物館明治村の運営に参画した人物)がおり、取り壊しについて以下のように回想した。「私が塀越しでなく、中に入って最後の姿を見ることができたのは取壊し直前のガランとした昭和15年の荒廃した最後の姿だった。もちろん私は若かったし、ただの傍観者にすぎなかった。そうはいっても最後の姿を自分の目で建築家として見届けえた幸いを感謝せずにはいられない」(「饒舌・鹿鳴館について」『都市住宅』83号p.40)。
出典
- ^ a b 千代田区観光協会
- ^ a b c 百科事典マイペディア(コトバンク)
- ^ 諸橋(1993)172頁。「呦呦鹿鳴 食野之苹」(ゆうゆうとして鹿の鳴くあり、野のよもぎを食らう)。天子が臣下や客を招いてごちそうする場合の詩である。
- ^ 清水勲『ビゴーが見た日本人』講談社学術文庫、2001年、p114-115。風刺雑誌『トバエ』に掲載されたもの。
- ^ 近藤富枝『鹿鳴館貴婦人考』講談社、1980年(講談社文庫、1983年)
- ^ 東京歴史遺産~明治・文明開化の面影めぐり~「鹿鳴館~やがて哀しき夢の跡~」
- ^ 日本プロファイル研究所 http://timetide.way-nifty.com/jprofile/2013/10/post-00da.html
- ^ “700人、ステップ軽やか 「ダンスの日」前に、札幌でイベント”. 北海道新聞 (北海道新聞社). (2014年11月25日)
鹿鳴館時代
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同館落成の1883年(明治16年)より1887年(明治20年)までの時期がいわゆる鹿鳴館時代である。1883年11月28日、1200名を招待して落成の祝宴が行われた。「鹿鳴」は『詩経』小雅にある「鹿鳴の詩」に由来し、来客をもてなすことを表す語で、中井櫻洲が名付けた。祝宴当日は井上馨の誕生日だった。以後鹿鳴館では国賓の接待や舞踏会ばかりでなく、天長節(11月3日、明治天皇誕生日)の祝賀会行事をはじめ数々の国内行事も行われるようになり、皇族や上流婦人の慈善バザーも重要な催しであった。 しかし当時にあっては、日本の政府高官やその夫人でも、その大部分は西欧式舞踏会におけるマナーやエチケットなどを知るすべもなく、その物の食べ方、服の着方、舞踏の仕方などは、西欧人の目からは様にならないものだった。本人たちは真剣勝負だったが、試行するも錯誤ばかりが目立った。西欧諸国の外交官もうわべでは連夜の舞踏会を楽しみながら、その書面や日記などにはこうした日本人を「滑稽」などと記して嘲笑していた。また、ダンスを踊れる日本人女性が少なかったため、ダンスの訓練を受けた芸妓が舞踏会の「員数」として動員されていたことがジョルジュ・ビゴーの風刺画に描かれ、さらに高等女学校の生徒も動員されていたという。 一方、欧化政策を批判する国粋主義者は鹿鳴館での行事を「嬌奢を競い淫逸にいたる退廃的行事」などとして非難の声を挙げるようになっていた。井上の鹿鳴館外交への風当たりは次第に厳しいものとなり、さらに条約改正案の内容(外国人判事の任用など)が世間に知られると、大反対が起こった。面目を失した井上は1887年9月に外務大臣を辞任し、井上の辞任とともに鹿鳴館時代は幕を下ろすことになった(ただし、鹿鳴館ではその後も数年間にわたって天長節夜会が開催された)。
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