大山捨松 おおやま すてまつ
福島生まれ。父は会津藩家老。明治4年(1871)日本初の女子留学生として津田梅子らと渡米。留学中に看護婦免状を取得。15年(1882)に帰国し、16年(1883)陸軍卿大山巌と結婚。いわゆる鹿鳴館時代には社交界の中心として活躍した。また、愛国婦人会理事、赤十字篤志看護会等の社会活動や女子英学塾(現津田塾大学)の設立・運営にも尽力した。陸軍少将山川浩、東京帝国大学総長山川健次郎は実兄。
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大山捨松
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/09 14:50 UTC 版)
大山 捨松(おおやま すてまつ、安政7年2月24日(1860年3月16日)- 大正8年(1919年)2月18日)は、日本の華族、教育者。旧姓は山川(やまかわ)、幼名はさき、のち咲子(さきこ)。日本最初の女子留学生の一人。大学を卒業して学士号を得た最初の日本人女性。元老となった大山巌の妻としての立場を通じ、看護婦教育・女子教育への支援に尽力した。
注釈
- ^ a b 各学生の概歴は以下の通り:
上田てい:上田悌子(うえだ ていこ)、満14歳、旧幕臣・上田畯の娘、後に医師・桂川甫純と結婚、没年不詳。
吉益りょう:吉益亮子(よします りょうこ)、満14歳、旧幕臣・吉益正雄の娘。
永井しげ:永井繁子(ながい しげこ)、満8歳、旧幕臣・益田鷹之助の娘(旧幕臣・永井久太郎の養女)。
津田うめ:津田梅子(つだ うめこ)、満6歳、旧幕臣・津田仙の娘。 - ^ 帰国後は日本組合基督教会の小崎弘道が牧師を務める霊南坂教会に会員になる[13]。
- ^ 1969年に共学校となる。
- ^ 捨松が語った会津戦争の体験談は、地元の雑誌にも記事として取り上げられた。
- ^ 捨松は名前の英語の綴りを “Stematz Yamakawa” としていた。
- ^ 「真実を愛する者の会」(Philalethes Society)。
- ^ 神田はこの後、今度は津田梅子に縁談を申し入れているが、やはり同じように断られている。
- ^ 神田乃武は、「捨松と釣り合う年齢(神田は1857年3月生まれ、1860年3月生まれの捨松より満3歳年上)である」「クリスチャンであり、清い心を持っている」「大学予備門と東京大学で教鞭を執っている」「男前である」「アメリカのアマースト大学を卒業しており、日本人としては津田梅子の次に英語が堪能」と好条件が揃っていた[30]。
- ^ このとき捨松24歳、大山は42歳だった。
- ^ 鹿鳴館落成祝宴は明治16年11月28日、大山家結婚披露宴は2週間後の同年12月12日のことだった。
- ^ このときの招待状は全文がフランス語で書かれており、人々を仰天させたという。
- ^ 高木はイギリスのセントトーマス病院に留学した経験があり、そこで専門教育を受けた看護婦たちに接していた。またナイチンゲールが運営する看護学校も見学していた。
- ^ 学監の下田歌子は儒学者を祖父にもつ歌人で、才女として皇后・美子の寵愛は厚かったが、女子教育者としてはまだ見識が浅かった。下田はこののち2年間欧米に留学し、そこで初めて新時代の女子教育のあり方に目覚めることになる。
出典
- ^ a b c d 秋山ひさ 1985, p. 83.
- ^ a b 秋山ひさ 1985, p. 84.
- ^ a b c d e f g h i j “大反対をよそに恋愛結婚。陸軍大将・大山巌の結婚生活は幸福だったか?”. 和樂web 日本文化の入り口マガジン (2020年12月23日). 2021年2月1日閲覧。
- ^ 秋山ひさ 1985, p. 84-85.
- ^ 児島襄『大山巌』文春文庫(第一巻)281頁-296頁
- ^ a b c 秋山ひさ 1985, p. 85.
- ^ a b 秋山ひさ 1985, p. 86.
- ^ 亀田 2005, p. 14
- ^ 秋山ひさ 1985, p. 87.
- ^ 秋山ひさ 1985, p. 88-89.
- ^ a b 秋山ひさ 1985, p. 89.
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- ^ 内海健寿「大山捨松」『日本キリスト教歴史大事典』237頁
- ^ a b 秋山ひさ 1985, p. 92.
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- ^ a b 寺沢 2009, pp. 94–96, 第4章 五人の別離とアメリカでの新しい生活:三人の女子留学生に帰国命令
- ^ a b c 松野良寅「会津藩女性と英学(1):大山捨松を中心に」『英学史研究』第1991巻、1990年、99-113頁、doi:10.5024/jeigakushi.1991.99。
- ^ “‘Daughters of the Samurai’ Sheds Light on a Strange Chapter in U.S.-Japanese History”. ウォール・ストリート・ジャーナル (2015年5月19日). 2022年4月24日閲覧。
- ^ 飯野 2000, pp. 53–54, 第3章 アリス・ベーコンと大山捨松-梅子を支援したベーコン家の〈娘〉たち(高橋裕子):1 アリスと捨松を育んだベーコン家:もう一つの異文化-日本人女子留学生山川捨松との出会い
- ^ 秋山ひさ 1985, p. 96.
- ^ 秋山ひさ 1985, p. 94-95.
- ^ a b c d 飯野 2000, pp. 54–57, 第3章 アリス・ベーコンと大山捨松-梅子を支援したベーコン家の〈娘〉たち(高橋裕子):2 捨松の夢、梅子の夢、アリスの支え:夢の系譜
- ^ a b c 寺沢 2009, pp. 131–132, 第6章 帰国女子留学生の困惑と苦悩:帰国しても仕事がなくて悩む捨松と梅子
- ^ 飯野 2000, pp. 14–15, 第1章 津田梅子とその時代-女子高等教育発展との関わりを中心として(伊勢田耀子):1 留学前後と教育界:帰国女子の受入れ体制
- ^ 寺沢 2009, pp. 121–124, 第6章 帰国女子留学生の困惑と苦悩:日本語が通じない困惑と焦燥
- ^ 久野明子 1988, pp. 133–138, 失意の日々:仕事探し
- ^ 寺沢 2009, pp. 136–138, 第6章 帰国女子留学生の困惑と苦悩:女学校設立の夢を家族に反対された捨松
- ^ 飯野 2000, pp. 58–60, 第3章 アリス・ベーコンと大山捨松-梅子を支援したベーコン家の〈娘〉たち(高橋裕子):2 捨松の夢、梅子の夢、アリスの支え:結婚という岐路ー捨松の婚約
- ^ a b c 寺沢 2009, pp. 148–150, 第7章 捨松の結婚と梅子の孤愁:捨松の心境の変化と結婚の決意
- ^ a b 古木 1992, p. 88
- ^ 久野明子 1988, pp. 140–141
- ^ 秋山ひさ 1985, p. 96-97.
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- ^ a b c “二四七鹿鳴館の貴婦人歡樂の悲哀//二四六鹿鳴館の貴婦人歡樂の悲哀//五一〇大山捨松夫人から「不如歸」上演に苦情”. ndlonline.ndl.go.jp. 『新聞集成明治編年史』新聞集成明治編年史編纂会(編)、林泉社、1936-1940. 国立国会図書館オンライン. 2021年2月17日閲覧。
- ^ a b c d e 秋山ひさ 1985, p. 99.
- ^ a b c d e f 秋山ひさ 1985, p. 100.
- ^ Frederic J. Haskin, The Washington Herald (1908年4月20日). “"Japanese elder statesmen" : Image 7 of The Washington herald (Washington, D.C.), April 20, 1908”. Library of Congress, Washington, D.C. 20540 USA. 2021年2月17日閲覧。
- ^ Evening Star (Washington, D.C.) (1909年1月4日). “"In the world of society" : Image 7 of Evening star (Washington, D.C.), January 4, 1909”. Library of Congress, Washington, D.C. 20540 USA. 2021年2月17日閲覧。 “『ジャパン・クロニクル』紙が伝えるところによると、アメリカ海軍太平洋艦隊所属ニュージャージー号のサザーランド艦長夫人は夫君に先んじて日本に到着し、日本海軍軍人の戦争未亡人を支援する団体に100円を寄付した。同団体代表である大山夫人は心づくしの歓迎会を開き、主賓のサ夫人は歓待に心を動かされたという。ほぼ1ヵ月前に神戸から帰国するとき、たとえようもない寂しさを感じたとサ夫人は語った由。”
- ^ 久野明子 1988, p. 103
- ^ Evening Star (1916年12月11日). “"Field Marshal Oyama dies in his 74th year" : Image 13 of Evening star (Washington, D.C.), December 11, 1916”. Library of Congress, Washington, D.C. 20540 USA. 2021年2月17日閲覧。
- ^ a b 秋山ひさ 1985, p. 102.
- ^ The Washington Times (Washington [D.C.]) (1919年2月25日). “"Japanese princess, educated here, dies" : Image 3 of The Washington times (Washington [D.C.), February 25, 1919, (FINAL EDITION)]”. Library of Congress, Washington, D.C. 20540 USA. 2021年2月17日閲覧。
- ^ 『不如歸』は単行本になるまえに新聞小説として明治31年(1898年)11月29日から同32年(1899年)5月24日にかけて國民新聞に連載された。1932年(昭和7年)の段階で百数十版を重ね、片岡良一は尾崎紅葉の『金色夜叉』とともに「近代日本の二大大衆小説」と評している(神立春樹 1991, p. 36)
- ^ 神立春樹 1991, p. 34.
- ^ 『官報』第1310号・付録、「辞令」1916年12月13日。
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