天明の打ちこわし
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天明の打ちこわし(てんめいのうちこわし)とは、江戸時代の天明7年(1787年)5月、ほぼ同時期に江戸、大阪など当時の主要都市を中心に30か所あまりで発生し、翌6月には石巻、小田原、宇和島などへと波及した打ちこわしの総称である。天明7年5月の打ちこわし発生数は江戸時代を通じて最多であり、特に5月末の江戸打ちこわしは極めて激しかった。全国各地で同時多発的に発生した打ちこわし、とりわけ幕府のお膝元の江戸打ちこわしによって当時幕府内で激しい政争を繰り広げていた田沼意次政権派と、松平定信を押し立てようとする譜代派との争いに決着がつき、田沼派が没落して松平定信が老中首座となり寛政の改革が始まることになった。
注釈
- ^ 安藤(2000)によれば、打ちこわしでは当然家屋等の破壊活動が伴うが、これはあくまで強訴の効果を上げるためなど闘争手段の一環としての活動で、盗みや略奪の禁止という統制は打ちこわしにおいても有効であった。
- ^ 岩田(2009)によれば、明和、安永期と比較して天明期に大坂にもたらされる米の量は12-30パーセント減少したという。
- ^ 片倉(2001)、岩田(2004)によれば、お救い願いに対して実際に北町奉行の曲淵景漸がどのような発言をしたのかについては伝わっておらず、困窮した江戸町民の訴えに耳を貸そうとしない町奉行に対して広まった風説とする。
- ^ 片倉(2001)によれば、一橋家調査以外の史料で判明する打ちこわしを加えると700軒を越え、打ちこわしの実数はもっと多いとする。
- ^ 竹内(2009)では、北町奉行柳生久通が判決を言い渡した逮捕者37名、指名手配者5名が打ちこわしでの逮捕、指名手配者の実数としたが、岩田(2004)によれば他に南町奉行山村良旺が判決を言い渡した逮捕者5名が判明しており、ここでは岩田の記述を採用する。
- ^ 岩田(2004)によれば、当時、喧嘩は基本的に双方の同一責任とされ、死傷者が出ない限り裁判の対象にしない定めであった。
- ^ 竹内(2009)によれば、少数に留まったとはいえ打ちこわしによる逮捕者の取り調べは厳しく、逮捕者のうち9名が採決時までに牢死している。つまり厳しい取調べの結果、強要された自白もある可能性が高く、罪状などについては信頼性が必ずしも確保されていないと考えられ、町奉行所の裁判記録から打ちこわし参加者の状況を類推するのは史料吟味を慎重に行う必要があるとする。
- ^ 菊池(1997)によれば、天明3年に東北地方で発生した一揆、打ちこわしは、大飢饉が目前に迫る天明7年夏に集中し、大飢饉が現実のものとなり餓死者が相次ぐようになった天明7年秋以降は一揆、打ちこわしは見られなくなり、物取り、略奪が横行するようになったとしており、生活困窮時における社会運動の発生状況に共通性が見られる。
- ^ 藤田(1999)によれば、京都でのお救い米給付は追加分決定後に1000石であったとの記録が残っているが、これは初回決定分と合わせて1000石なのか、それとも初回分500石に加えて1000石の支給を決定したのかはっきりしないとする。
- ^ 片倉(2001)によれば、天明の江戸打ちこわし時の度重なる失態にも係わらず、能吏として知られていた曲淵景漸は後に復権し、勘定奉行を務めることになる。
出典
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天明の打ちこわし
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天明6年(1786年)に天明の大飢饉と凶作によって米価が高騰して深刻な米不足が起こった。 翌天明7年(1787年)にかけて景漸ら町奉行所は様々な対策を打ち出すも、商人や幕府役人の癒着構造、そもそもの品不足などもあり、これを好転させる成果は出せなかった。俗に言われる説では、景漸が食料不足の対処に当たっていた折、米穀支給を望んで景漸を頼って押しかけてきた町人達と問答している内に激昂してしまい、その請願を一蹴した上で「昔は米が払底していた時は犬を食った。犬1匹なら7貫文程度で買える。米がないなら犬を食え」「町人は米を喰わずに麦を喰え」などと放言し、その舌禍が町人の怒りの導火線に火を付け、群衆により複数の米問屋などが襲撃され、江戸市中が一時無秩序状態になるほどの大規模な打ちこわしに発展していたとされる。近年の研究に拠れば、実際の発言内容は不明であり、食糧事情に不安と不満を持つ大衆の間に、奉行はこう言った、という形で真偽不詳の風説が流布したものと考えられている。 拡大するこの事態に江戸城中では寺社奉行と勘定奉行と町奉行の、いわゆる三奉行が対応を協議したが、なぜ町奉行所が現場に出向かないのかと批判されると、北町奉行の曲淵景漸は「この程度のことでは出向かない」と回答した。この曲淵の発言に対し、勘定奉行の久世広民は「いつもは少し火が出ただけでも出て行くのに、今回のような非常事態に町奉行が現場に出向かないというのはどういうことだ」と、厳しく批判した。結局、景漸ら町奉行所勢は打ちこわし鎮静化を図るために現場に出向くことになったが、町奉行や捕縛をする役人たちは打ちこわし勢から「普段は奉行のことを敬いもする、しかしこのような事態となっては何を恐れ憚ることがあろうか、近寄ってみろ、打ち殺してやる」「今、江戸中の人々は皆同じように苦しんでいる、しかし公儀からは全く援助の手が差し伸べらず見殺しにされている、まことにむごく不仁な御政道でございますなあ」などの罵声を浴び、町奉行側も打ちこわし勢を片っ端から捕縛するようなことはせず、基本的に打ちこわし時に盗みを行う者を捕まえるのみに留まった。このように鎮圧に消極的ながらも尽力したものの、町奉行所の手勢の数のみでは対応できず、逆に同心らが襲撃されるような状態であり、そもそも町奉行所の権限では前述のような、癒着構造や物価高騰・品不足などを抜本から解決できるわけではなかった。この状況を重く見た幕府は5月23日(7月8日)、長谷川平蔵ら先手組頭10名に市中取り締まりを命じ、騒動を起こしている者を捕縛して町奉行に引き渡し、状況によっては切り捨てても構わないとされた。しかし実際に打ちこわし勢を捕縛した先手組は2組に過ぎず、残りの8組は江戸町中を巡回しているだけであった。5月24日(7月9日)に町奉行所から、騒動を起こした場所にいる者は見物人ともども捕らえること、米の小売の督励と米の隠匿を禁じる町触が出た。同時に各町内の木戸が常時閉められ、竹槍、鳶口などで武装した番人が警備を行い、木戸の無い町では急遽竹矢来を設置するなどして、打ちこわし勢の侵入を防ぐ手立てが講じられるようになった。また、5月22日(7月7日)、幕府は困窮者に対する「お救い」の実施を決定し、勝手係老中の水野忠友は町奉行に対し支援を要する人数の確認を指示した。町奉行は支援対象者を36万2000人と見積もり、一人につき米一升の支援を要するとした。町奉行からの報告を受けた水野忠友は5月23日(7月8日)、勘定奉行に対して二万両を限度として支援対象者一人当たり銀三匁二分を支給するよう指示し、5月25日(7月10日)には実際にお救い金として町方に引き渡された。また5月24日(7月9日)からは米の最高騰時の約半額で米の割り当て販売を開始し、困窮した庶民たちは給付されたお救い金で米を購入することができるようになった。 これらの諸政策により、5月25日(1787年7月10日)には江戸打ちこわしはほぼ沈静化した。同年、打ちこわしの発生および対応の遅さの責を被る形で奉行を罷免され、6月10日に石河政武が後任の北町奉行となり、景漸は西ノ丸留守居に降格させられた。景漸は民衆に同情していたためか、更なる暴動を防ぐためか、「市民と米屋とのただの喧嘩」などの名目で、打ちこわしに与した町人達への処罰を極力寛容なものに留めている。また南町、北町領両行所の与力の総責任者である年番与力に対し、ともに江戸追放、お家断絶の処分が下された。この打ちこわしによる幕府役人側の処分者は、景漸を含めこの三名のみである(正式な処分ではないが、権勢を誇った老中田沼意次の失脚と、次世代政権で政治の清廉を追求した老中松平定信の台頭はこの打ちこわしがきっかけともされる。詳しくは「天明の打ちこわし」項目参照)。
※この「天明の打ちこわし」の解説は、「曲淵景漸」の解説の一部です。
「天明の打ちこわし」を含む「曲淵景漸」の記事については、「曲淵景漸」の概要を参照ください。
- 天明の打ちこわしのページへのリンク