天明の打ちこわしとは? わかりやすく解説

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天明の打ちこわし

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/31 14:44 UTC 版)

天明の打ちこわし(てんめいのうちこわし)とは、江戸時代天明7年(1787年)5月、ほぼ同時期に江戸大阪など当時の主要都市を中心に30か所あまりで発生し、翌6月には石巻小田原宇和島などへと波及した打ちこわしの総称である。天明7年5月の打ちこわし発生数は江戸時代を通じて最多であり、特に5月末の江戸打ちこわしは極めて激しかった。全国各地で同時多発的に発生した打ちこわし、とりわけ幕府のお膝元の江戸打ちこわしによって当時幕府内で激しい政争を繰り広げていた田沼意次政権派と、松平定信を押し立てようとする譜代派との争いに決着がつき、田沼派が没落して松平定信が老中首座となり寛政の改革が始まることになった。


注釈

  1. ^ 安藤(2000)によれば、打ちこわしでは当然家屋等の破壊活動が伴うが、これはあくまで強訴の効果を上げるためなど闘争手段の一環としての活動で、盗みや略奪の禁止という統制は打ちこわしにおいても有効であった。
  2. ^ 岩田(2009)によれば、明和、安永期と比較して天明期に大坂にもたらされる米の量は12-30パーセント減少したという。
  3. ^ 片倉(2001)、岩田(2004)によれば、お救い願いに対して実際に北町奉行の曲淵景漸がどのような発言をしたのかについては伝わっておらず、困窮した江戸町民の訴えに耳を貸そうとしない町奉行に対して広まった風説とする。
  4. ^ 片倉(2001)によれば、一橋家調査以外の史料で判明する打ちこわしを加えると700軒を越え、打ちこわしの実数はもっと多いとする。
  5. ^ 竹内(2009)では、北町奉行柳生久通が判決を言い渡した逮捕者37名、指名手配者5名が打ちこわしでの逮捕、指名手配者の実数としたが、岩田(2004)によれば他に南町奉行山村良旺が判決を言い渡した逮捕者5名が判明しており、ここでは岩田の記述を採用する。
  6. ^ 岩田(2004)によれば、当時、喧嘩は基本的に双方の同一責任とされ、死傷者が出ない限り裁判の対象にしない定めであった。
  7. ^ 竹内(2009)によれば、少数に留まったとはいえ打ちこわしによる逮捕者の取り調べは厳しく、逮捕者のうち9名が採決時までに牢死している。つまり厳しい取調べの結果、強要された自白もある可能性が高く、罪状などについては信頼性が必ずしも確保されていないと考えられ、町奉行所の裁判記録から打ちこわし参加者の状況を類推するのは史料吟味を慎重に行う必要があるとする。
  8. ^ 菊池(1997)によれば、天明3年に東北地方で発生した一揆、打ちこわしは、大飢饉が目前に迫る天明7年夏に集中し、大飢饉が現実のものとなり餓死者が相次ぐようになった天明7年秋以降は一揆、打ちこわしは見られなくなり、物取り、略奪が横行するようになったとしており、生活困窮時における社会運動の発生状況に共通性が見られる。
  9. ^ 藤田(1999)によれば、京都でのお救い米給付は追加分決定後に1000石であったとの記録が残っているが、これは初回決定分と合わせて1000石なのか、それとも初回分500石に加えて1000石の支給を決定したのかはっきりしないとする。
  10. ^ 片倉(2001)によれば、天明の江戸打ちこわし時の度重なる失態にも係わらず、能吏として知られていた曲淵景漸は後に復権し、勘定奉行を務めることになる。

出典

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天明の打ちこわし

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 06:26 UTC 版)

曲淵景漸」の記事における「天明の打ちこわし」の解説

天明6年1786年)に天明の大飢饉凶作によって米価高騰して深刻な米不足が起こった。 翌天明7年1787年)にかけて景漸ら町奉行所様々な対策打ち出すも、商人幕府役人癒着構造そもそもの品不足などもあり、これを好転させる成果出せなかった。俗に言われる説では、景漸が食料不足対処当たっていた折、米穀支給望んで景漸を頼って押しかけてきた町人達と問答している内に激昂してしまい、その請願一蹴した上で「昔は米が払底していた時は食った1匹なら7貫文程度買える。米がないなら食え」「町人は米を喰わずに麦を喰え」などと放言し、その舌禍が町人の怒り導火線火を付け群衆により複数米問屋などが襲撃され江戸市中一時無秩序状態になるほどの大規模な打ちこわし発展していたとされる近年の研究拠れば実際発言内容不明であり、食糧事情に不安と不満を持つ大衆の間に、奉行はこう言った、という形で真偽不詳風説流布したものと考えられている。 拡大するこの事態江戸城中では寺社奉行勘定奉行町奉行の、いわゆる三奉行が対応を協議したが、なぜ町奉行所現場出向かないのかと批判されると、北町奉行曲淵景漸は「この程度のことでは出向かない」と回答した。この曲淵の発言対し勘定奉行久世広民は「いつもは少し火が出ただけでも出て行くのに、今回のような非常事態町奉行現場出向かないというのはどういうことだ」と、厳しく批判した結局、景漸ら町奉行所勢は打ちこわし鎮静化を図るために現場出向くことになったが、町奉行捕縛をする役人たちは打ちこわし勢から「普段奉行のことを敬いもする、しかしこのような事態となって何を恐れ憚ることがあろうか、近寄ってみろ、打ち殺してやる」「今、江戸中の人々は皆同じよう苦しんでいる、しかし公儀からは全く援助の手差し伸べらず見殺しにされている、まことにむごく不仁御政道でございますなあ」などの罵声浴び町奉行側も打ちこわし勢を片っ端から捕縛するようなことはせず、基本的に打ちこわし時に盗みを行う者を捕まえるのみに留まった。このように鎮圧消極的ながらも尽力したものの、町奉行所の手勢の数のみでは対応できず、逆に同心らが襲撃されるような状態であり、そもそも町奉行所権限では前述のような癒着構造物価高騰品不足などを抜本から解決できるわけではなかった。この状況重く見た幕府5月23日7月8日)、長谷川平蔵先手組10名に市中取り締まり命じ騒動起こしている者を捕縛し町奉行引き渡し状況によっては切り捨てて構わないとされた。しかし実際に打ちこわし勢を捕縛した先手組2組過ぎず残りの8組は江戸町中を巡回しているだけであった5月24日7月9日)に町奉行所から、騒動起こした場所にいる者は見物人ともども捕らえること、米の小売督励と米の隠匿禁じ町触出た同時に町内木戸常時閉められ竹槍鳶口などで武装した番人警備行い木戸の無い町では急遽竹矢来設置するなどして、打ちこわし勢の侵入を防ぐ手立て講じられるようになったまた、5月22日7月7日)、幕府困窮者に対する「お救い」の実施決定し、勝手係老中水野忠友町奉行対し支援要する人数確認指示した町奉行支援対象者を362000人と見積もり一人つき米一升支援要するとした。町奉行からの報告受けた水野忠友5月23日7月8日)、勘定奉行に対して万両限度として支援対象一人当たり銀三匁二分支給するよう指示し5月25日7月10日)には実際にお救い金として町方引き渡された。また5月24日7月9日)からは米の最高騰時の半額で米の割り当て販売開始し困窮した庶民たちは給付されお救い金で米を購入することができるようになった。 これらの諸政策により、5月25日1787年7月10日)には江戸打ちこわしはほぼ沈静化した。同年打ちこわし発生および対応の遅さの責を被る形で奉行罷免され6月10日石河政武後任北町奉行となり、景漸は西ノ丸留守居降格させられた。景漸は民衆同情していたためか、更なる暴動を防ぐためか、「市民米屋とのただの喧嘩」などの名目で、打ちこわし与した町人達への処罰極力寛容なものに留めている。また南町北町領両行所与力の総責任者である年番与力対し、ともに江戸追放お家断絶処分下された。この打ちこわしによる幕府役人側の処分者は、景漸を含めこの三名のみである(正式な処分ではないが、権勢誇った老中田沼意次失脚と、次世代政権政治清廉追求した老中松平定信台頭はこの打ちこわしきっかけともされる詳しくは「天明の打ちこわし」項目参照)。

※この「天明の打ちこわし」の解説は、「曲淵景漸」の解説の一部です。
「天明の打ちこわし」を含む「曲淵景漸」の記事については、「曲淵景漸」の概要を参照ください。

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