行政機構の改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 01:30 UTC 版)
幕内での権力を確立した吉宗は享保6・7ごろから元文元年(1736)にかけて本格的な政治改革を行った。 当時幕府は幕領からの年貢、主要鉱山・御林などからの収入が頭打ちとなると共に、「米価安の諸色高」によって産業間の需給バランスが崩れ武家庶民共に生活が不安定になりつつあった。幕府財政収支にいたっては六代家宣の時期には収入が76万両程であったのに対し、支出は140万両にも及んでいた。その対策の為に吉宗は勘定所改革を行い、増加する訴訟の対応のため業務が停滞していた職域を財政業務から切り離し、勘定所の職掌を公事方(司法)と勝手方(財務)の二つに区分させ、上方・関東の二つに分かれていた勘定方の担当区分も一元化させた。城内に所蔵されていた財政関係の公務書の整理・目録化にも着手した。その結果、9万4200冊もの書類を再編し直すことで過去の先例を容易に検索でき、また新たな情報も追加しやすくなった。このように勘定所の事務運営の効率化・合理化を推し進めた(p8,9)。 新田開発も推し進めるべく勘定所内に新田方を新たに設けた。また、幕府が資金難であったために元来禁止されていた町人請負の新田開発を推奨して民間資金に依存した開発政策に舵を切り替えるにいたった。紀州藩から招聘した井澤弥惣兵衛ら土木技術者たちの新しい土木技術や河川管理技術、勃興する商人たちの資本力を活用した町人請負制型の新田開発の方式を導入によって、幕領の石高はこの時期に約50万石の増大をみて450万石ほどに上った。 人事に関しても、これまで能力がありながら禄高が足らず適当な役職に就けない者達を登用するため、享保8年6月、基準石高より禄高が低い者が役職についた際に、就任期間に限り禄高を引き上げるという足高の制を設けた。 このような改革を続ける吉宗にとってもっとも頭を痛めたのが「米価安の諸色高」に対するものだった。米価引き上げと物価引下げに腐心し続けたために吉宗は「米将軍」と異名を付けられている。幕府は毎年買米を行ない、諸藩に対し米の貯蔵・江戸と大坂への廻米を制限するなどと命じて米の供給量を減らし米価を引き上げようとしたが米価は下がり続けた。そのため、幕府は通貨量を増やして米価を下げるべく宝永金・藩札の通用を解禁した。しかしこれも諸藩が領内の米を藩札で買い、大阪で売って銀貨を得ようとしたために、米の供給が過剰になり米安となった。大岡忠相ら経済官僚は金銀の品質を悪くして通貨供給量を増やさないと米高にはならないと吉宗に主張し、元文元年(1736)、幕府は金銀貨幣の改鋳を行った(p131,133)。 元文金銀は金貨の金含有量は60%、銀貨の銀含有量は58%、旧来の貨幣との交換比率は金貨では旧貨100両に対し新貨165両、銀貨は旧貨10貫目に対し新貨15貫目であり、金高銀安にされた。またこの貨幣改鋳にあわせて、商品流通の拡大にともない寛永通宝が不足して銭高になっていたため鉄銭を大量に鋳造し流通させた。これらの大供給によって米価・物価が上がり幕府財政は黒字になった。ただし、武家の経済は回復したが米価高は庶民の生活を圧迫することとなった。
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行政機構の改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 01:32 UTC 版)
近世琉球の政治的中心である評定所の各機構を整備したと言われる。具体的には、1666年から1673年までの羽地の摂政期の間に、耳目官や御物奉行重人衆を吟味役と改称(1666年)、評定所筆者二人を減去し(1666年)、評定所筆者主取を設置(1668年)。日帳主取二員や御物奉行帳当(共に1671年)の設置などがある。また1667年には、三司官の最短距離にあり、薩摩―琉球間の取次を主たる任務とする在番親方が制度化した。
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