日中戦争最中の急死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/25 09:48 UTC 版)
1937年(民国26年)、日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、廖磊は第11集団軍副総司令兼第7軍軍長に任ぜられ、第5戦区で日本軍を迎撃した。同年10月、廖は第21集団軍総司令兼第48軍軍長に昇進、上海方面へ向かい、日本軍と交戦している。この交戦で廖の軍は損害が大きく、いったん湖南省で再編に務めた後、翌1938年(民国27年)春に安徽省入りする。同年4月、徐州方面で日本軍を迎撃し、これと交戦した。 9月、廖磊は引き続き前線指揮をとる李宗仁の後任として安徽省政府主席に任命された。翌月には豫鄂皖辺区遊撃兵団司令も兼ねている。廖は安徽省を抗日のための基地とすべく、軍事訓練の精緻化や行政機構の改革を推進し、一定の成果をあげた。また、新四軍との連携も進展させるなど容共的な姿勢も示している。しかしこの容共的な姿勢は、安徽省内のCC派や同じ新広西派の李品仙ら反共勢力の批判や反発を招くことになり、廖はこれらへの対応にも苦慮した。 1939年(民国28年)10月23日、廖磊は脳溢血で突然倒れ、そのまま死去した。享年50(満49歳)。その後、李品仙が後任の安徽省政府主席となり、容共路線は反共路線へと転換されていくことになる。
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