福山藩
福山藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 07:15 UTC 版)
「備後福山藩」も参照 幕府は正則を改易した後、この地を西日本の外様大名への防衛拠点“西国の鎮衛”として譜代大名を置くことにし、元和5年(1619年)水野勝成が入封し福山藩が興る。当時幕府は一国一城令の下で築城に厳しい制限を設けていたが、こうしたことから勝成に関しては石高に対して破格の規模の福山城築城が許可された。勝成は芦田川下流域に福山城下町を整備、藩運営のため治水・利水整備および産業育成を推進した。日本三大旧上水道の1つ福山旧水道や、備後三大ため池の瀬戸池・春日池・服部大池が造られたのはこの頃である。 水野氏は無嗣により5代で断絶、天領・松平忠雅藩政を経て、宝永7年(1710年)から阿部氏が幕末まで統治した。阿部氏は正福が大坂城代を務めたのを初めとして、老中4人(正右・正倫・正精・正弘)輩出している。こうしたことから阿部氏藩主は1,000人もの家臣団とともにほぼ江戸にいたため出費がかさみ、阿部氏時代の福山藩は慢性的な財政難であった。 領民側から見ると、水野氏時代は勝成から続いた領民重視の“善政”であったが、天領時の検地(元禄検地)での厳しい査定の結果重い年貢負担が幕末まで続き、阿部氏時代は老中就任に絡んで更なる増税が課せられた。そのため阿部氏時代の民は不作が続くと年貢減免を要求して百姓一揆を頻繁に起こしていた。
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