鹿児島県知事一覧
鹿児島県知事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 22:35 UTC 版)
井上馨より鹿児島県知事を打診される。当時の鹿児島は、台風や火山灰等の劣悪な自然条件に加えて、西南戦争以後の吏党と民党の政争が頂点に達し県政が空洞化している状況であったが「難地の名ある地方の知事たるは誠に本懐これに過ぎず」と快諾、明治27年(1894年)1月20日就任した。 同年、内村鑑三、新渡戸稲造と東京英語学校で同学で、札幌農学校に学んだ岩崎行親を知事顧問として招聘し、不偏不党の方針を掲げ農業、水産、土木、教育の諸事業に積極的に取り組んだ。農会の設置と系統化を通じた農業の近代化と生産力の向上に努め、米の生産量を75%増収し、みかん・お茶・薩摩焼などの特産品を奨励した。鹿児鉄道の新設、鹿児島港の近代化、道路などインフラ整備にも尽力し、おおきな成果を挙げる。教育の面でも、全国に先駆け、小学校の授業料を無料化し、遅れていた就学率を男女とも全国のトップレベルに引き上げた他、中学校の増設、高等学校(現鹿児島大学)の創設などに努めた。 加納は離島にも積極的に足を運び、私財を投じ自ら先頭に立つ姿勢や知事の肩書きにとらわれない気さくな性格とあいまって、県民から親のように慕われた。西南戦争により無気力化していた鹿児島県を近代化に導き、その基礎を築いた「勧業知事」「教育知事」として、高い評価を受ける。明治33年(1900年)9月8日に知事を休職。離任の際に行われた送別会には3000人が集まり、感極まって泣き出す県民も少なくなかったという。明治36年(1903年)9月7日、休職満期となり正式に退官した。
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鹿児島県知事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/29 14:27 UTC 版)
名前は不明(原作では田丸)。県庁舎の展望ルームから霧島の巨大な噴煙を眺め、大丈夫だと笑っていたが……。
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