鹿児島県立中学造士館
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明治17年(1884年)12月26日、文部省中学校教則大綱と中学校通則により開校。明治17年(1884年)に、島津忠義が県令に「造士館再建の願」を提出し、同年6月には「鹿児島県立中学造士館創立委員会」が発足(委員長・島津珍彦、副委員長・島津忠欽)しており、公立鹿児島学校へ県立鹿児島中学を統合する形で開校した。 館長には島津珍彦が就き、課程は高等中学科及び初等中学科の2科編制、生徒定員は500名で、開校時、中学造士館の本館として鹿児島市磯地区の「異人館」が鹿児島城址に移築され、維持費は、前出・島津忠義の寄付金及び公立鹿児島学校の校費を転用し、県費の支出は皆無であった。 明治二十年造士館騒動 明治20年(1887年)6月22日、寮の朝食で寮生2名が食卓で粗相をした(食事をこぼした)。それを見た寮監が「田舎五郎ノ様子ヲ以テ斯ル軽率ナル事ヲナシ若シ館外ナリセバ踏ミ倒シ呉レン」と罵倒。これに対して鹿児島市以外出身者、すなわち地方出身の寮生が憤慨し寮監を追及するが、暴動は起こさず、寮生代表8名が学校側と話し合った。学校側は結論を出すまでの間、寮生に外出禁止を通達したが、数十名が外出した。その2日後には全員が放館処分を受けた。寮生154名の中には、宮崎県小林地区出身の赤木通弘(明治6年(1873年)生、当時14歳)がおり、赤木の手記が昭和61年(1986年)2月に赤木の子孫家で発見され、遠戚により製本・出版がなされて当事件が明らかになった。また、原口泉(当時鹿児島大学法文学部助教授)がナビゲーターを務める「NHKかごしま歴史紀行」の同年9月放送分でも取り上げられている。 明治19年(1886年)4月には、中学校を尋常中学校と高等中学校に分離する「中学校令」が公布され、各府県には一校ずつ尋常中学校が次々に設置された。明治20年1月、鹿児島県出身の初代文部大臣・森有礼が帰鹿、中学造士館を視察したが、この際に中学造士館を高等中学校へ昇格させる運動が起こり、島津忠義らによる中学造士館の基金など一切は、高等中学校へ転用された。
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