鹿児島県立中学造士館とは? わかりやすく解説

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鹿児島県立中学造士館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 09:39 UTC 版)

中学造士館」の記事における「鹿児島県立中学造士館」の解説

明治17年1884年12月26日文部省中学校教則大綱中学校通則により開校明治17年1884年)に、島津忠義県令に「造士館再建の願」を提出し同年6月には「鹿児島県立中学造士館創立委員会」が発足委員長島津珍彦副委員長島津忠欽)しており、公立鹿児島学校県立鹿児島中学統合する形で開校した館長には島津珍彦就き課程高等中学科及び初等中学科の2科編制生徒定員500名で、開校時、中学造士館本館として鹿児島市地区の「異人館」が鹿児島城址に移築され維持費は、前出島津忠義寄付金及び公立鹿児島学校校費転用し県費支出皆無であった明治二十年造士館騒動 明治20年1887年6月22日、寮の朝食寮生2名が食卓粗相をした(食事こぼした)。それを見た寮監が「田舎五郎様子ヲ以テ斯ル軽率ナル事ヲナシ若シ館外ナリセバ踏ミ倒シ呉レン」と罵倒。これに対して鹿児島市外出身者、すなわち地方出身寮生憤慨し寮監追及するが、暴動起こさず寮生代表8名が学校側話し合った学校側結論を出すまでの間、寮生外出禁止通達したが、数十名が外出したその2日後には全員が放館処分受けた寮生154名の中には宮崎県小林地区出身赤木通弘(明治6年1873年)生、当時14歳)がおり、赤木の手記が昭和61年1986年2月赤木の子孫家発見され遠戚により製本出版なされて当事件が明らかになった。また、原口泉当時鹿児島大学法文学部助教授)がナビゲーター務める「NHKかごしま歴史紀行」の同年9月放送分でも取り上げられている。 明治19年1886年4月には、中学校尋常中学校高等中学校分離する中学校令」が公布され、各府県には一校ずつ尋常中学校次々設置された。明治20年1月鹿児島県出身初代文部大臣森有礼帰鹿中学造士館視察したが、この際中学造士館高等中学校昇格させる運動起こり島津忠義らによる中学造士館基金など一切は、高等中学校転用された。

※この「鹿児島県立中学造士館」の解説は、「中学造士館」の解説の一部です。
「鹿児島県立中学造士館」を含む「中学造士館」の記事については、「中学造士館」の概要を参照ください。

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