治水工事
治水工事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 09:17 UTC 版)
航路開拓と同じ頃、河口付近の港では上流から流入する土砂によりしばしば港が閉塞する問題がおきていたが、瑞賢は新川の開削工事の経験もあり、上流の治山と下流の治水を一体的に整備すべきとの認識を得ていたといわれる。 延宝2年(1674年)に淀川で大洪水が発生。天和3年(1683年)に若年寄稲葉正休が淀川の視察に訪れた際に瑞賢が案内役を務め、瑞賢の治水の考えは徐々に幕府上層部に影響を与えるようになった。そして、貞享元年(1684年)から同4年(1688年)までの第1期、元禄11年(1698年)から12年(1699年)までの第2期にわたり、大坂市街が位置する淀川下流の治水工事を任されることとなる。第1期では九条島切開による安治川の開削、大川・堂島川・曽根崎川の拡幅など、第2期では堀江川の開削、十三間堀川の開削、難波島切開による木津川の直線化などが実施され、河岸では新地開発も同時に行われた。安治川の開削で出た土砂によって安治川入港の目印となる波除山が築かれ、一名を瑞賢山と称した。 ほかにも全国各地で治水・灌漑・鉱山採掘・築港・開墾などの事業を実施。その功により晩年には旗本に加えられた。その活躍は新井白石の『奥羽海運記』や『畿内治河記』に詳しく、「天下に並ぶ者がない富商」と賞賛されていた。
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