上総苅谷藩
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上総苅谷藩(かずさかりやはん)は、上総国夷隅郡苅谷(現在の千葉県いすみ市苅谷)を居所として、江戸時代前期に存在した藩。1642年、堀氏が1万石の大名となって立藩。1668年に居所を市原郡八幡(現在の市原市八幡)に移して上総八幡藩となった。
注釈
- ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
- ^ 元和7年(1621年)に相模国高座郡、下総国香取郡で500石。寛永7年(1630年)に武蔵国高麗郡、上総国埴生郡、下総国香取郡で500石。寛永10年(1633年)に甲斐国八代・山梨郡で1000石[2]。
- ^ 甲斐国山梨郡、相模国高座郡、下総国香取郡の3郡内[6]。
- ^ これよりさき寛永15年(1638年)に召し出されて書院番を務め、食禄を得ていた。兄からの分知を受けた際に食禄は収公された[6]。
- ^ この「沼垂郡」は刈羽郡のことである。
- ^ 寛文8年(1668年)12月に叙任した記事に続いて「これよりさき上総国夷隅郡苅谷の居所を
同郡 八幡にうつす」とある。 - ^ 現代の苅谷にある國吉神社は明治時代に付近の神社が統合されたものであるが[13]、伊甚屯倉跡に祀られた社がルーツの一つとされる[11]。
出典
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第七百六十八「堀」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.1199。
- ^ a b c d e f g h i 『寛政重修諸家譜』巻第七百六十八「堀」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.1200。
- ^ a b c d e “苅谷村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2022年10月10日閲覧。
- ^ a b c d 『房総における近世陣屋』, p. 60.
- ^ 『上総国町村史 第五編』, 五十丁裏-五十一丁表(NDLデジタルコレクション コマ番号52/86).
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第七百六十八「堀」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.1206。
- ^ a b “苅谷藩”. 角川日本地名大辞典. 2022年10月10日閲覧。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第七百六十八「堀」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.1201。
- ^ 『角川新版日本史辞典』(角川学芸出版社、1996年)p.1303「近世大名配置表」
- ^ “堀直良”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2022年10月10日閲覧。
- ^ a b 『上総国町村史 第五編』, 五十丁裏(NDLデジタルコレクション コマ番号52/86).
- ^ a b c 『千葉県夷隅郡誌』, p. 382.
- ^ 『千葉県夷隅郡誌』, p. 408.
- ^ 『上総国町村史 第五編』, 五十丁表(NDLデジタルコレクション コマ番号51/86).
- ^ “国吉村(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2022年10月10日閲覧。
- ^ “朝市・直売所 夷隅地域”. 千葉県. 2022年10月20日閲覧。
- ^ 「夷隅の信仰・風俗・祭り・伝統など(8)~夷隅の六斎市~」『さとのかぜ』第193号、千葉県いすみ環境と文化のさとセンター、2015年10月1日、5頁、2022年10月20日閲覧。[信頼性要検証]。参考文献として『夷隅町史』(2004年)が挙げられている。
- ^ a b c 千葉県立中央図書館(回答). “江戸時代初期、夷隅町(現いすみ市)苅谷にあったという苅谷藩の陣屋(跡)の所在地(地番)を知りたい。”. レファレンス協同データベース. 2022年10月10日閲覧。
- 1 上総苅谷藩とは
- 2 上総苅谷藩の概要
- 3 領地
- 4 脚注
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