日和山
日和山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 09:05 UTC 版)
江戸時代に江戸と大坂を結んだ菱垣廻船等が天候を見るために利用した山。山は2ヶ所あり、「大的矢」・「小的矢」と呼ばれている。方位石が設置されている。
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日和山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/25 02:42 UTC 版)
旧北上川の西岸、石巻の町の歴史的中心の至近にある。平安時代に遡る鹿島御児神社が鎮座する。鎌倉時代に源頼朝の家人であった葛西清重が奥州合戦の恩賞として牡鹿郡を始めとする近隣の数カ所を受領し、日和山に石巻城を築いたとされる。葛西氏とその所領は天正18年(1590年)に羽柴秀吉に滅ぼされるまで維持された。 江戸時代に書かれた地誌によれば、山の名は石巻から商船が出航する前に、この山に登って天候を観察したことからついたという。参詣のため、風景を眺めるために登る人が多かった。元禄2年5月10日(グレゴリオ暦1689年6月26日)には松尾芭蕉が訪れ、同行の弟子河合曾良が眺望を日記に記した(『おくのほそ道』参照)。 現在は日和山公園として整備されている。日和山から日和大橋越しに見る旧北上川河口と太平洋、また、旧北上川の中洲であり、内海五郎兵衛が私財を投じて内海橋を架けた中瀬の見える風景は、そのまま石巻の成り立ちと市民のアイデンティティを示すものである。桜とツツジの名所とされ、山上に芭蕉と曽良の像がある。1983年(昭和58年)に行われた発掘調査によって、石巻城の遺構であると思われる大規模な城郭があったことが確認された。2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の際は、多くの市民が山に登って津波から避難したが、眼下の石巻漁港や市街地は広範囲に被害を受けた。
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