34歳とは? わかりやすく解説

3 - 4歳

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サクラチトセオー」の記事における「3 - 4歳」の解説

デビュー前から能力の高さを買われていたサクラチトセオー3歳10月東京新馬戦デビューした。この新馬戦快勝すると、続くひいらぎ賞(500下)では1位入線馬の降着によって勝利し、クラシック候補名を連ねた。 ところが、4歳になるとサクラチトセオーは右腰の状態が悪くなり、なかなかレース使えなくなった。それでも、ダービートライアルNHK杯で3着に入り、何とか日本ダービー出走することができた。しかし、ダービーでは先行したものの、キャリア4戦という経験浅さ露呈したことと体調が今一つだったこともあり11着と大敗喫したダービー後サクラチトセオー休養入ったが、腰の状態が思わしくないこともあり、秋は1度出走できなかった。

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3 - 4歳(1972-1973年)

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ナスノチグサ」の記事における「3 - 4歳(1972-1973年)」の解説

1972年7月23日東京競馬場新馬戦1100メートル)に嶋田功騎乗し後方に5馬身差をつけて初勝利。続く福島競馬場オープン競走も5馬身差で2連勝とした。3戦目の福島3歳ステークスこそマミーブルー敗れたが、東京競馬場オープン競走3勝目以降オープン競走にてレコードタイム走破し2着、府中3歳ステークスで4勝目となった初め輸送経験し臨んだ中山競馬場3歳牝馬ステークスでは、ニットウチドリに3馬身差をつけて5勝目となった4歳となった1973年2月クイーンカップ始動し、1番人気で出走するも、7着敗退。この結果受けて稲葉は、ナスノチグサ気性性格が、関西遠征には耐えられないとして桜花賞回避表明代わりに優駿牝馬オークス)を目標とした。以降関東での出走続けフラワーカップ3着、東京4歳牝馬特別はレデースポートにクビ差の2着で前哨戦消化した5月20日優駿牝馬オークス)は、レデースポートに次ぐ2番人気出走馬場内側の中団で待機し直線でも内から追い上げた。外のレデースポート、内で逃げ粘るニットウチドリかわして先頭となり、後方に3馬身半差をつけて先頭入線。姉ナスノカオリ10着に敗れた舞台で雪辱果たした嶋田前年続いて優駿牝馬勝利し、この1年間騎手生命危ぶまれるほどの落馬負傷経た連覇であった嶋田は「(ナスノカオリ道中泥をかぶったりすると行く気をなくしちゃうところがあるが、(ナスノチグサの方は逆に闘争心を出すんです。内に入れて我慢させ、直線で力の勝負出たのがよかったのでしょう。(後略カッコ加筆者)」と振り返っている。その後古馬相手安田記念進み3着となった夏休み経て、秋は増沢末夫乗り替わり京都牝馬特別復帰。2戦目のビクトリアカップでは、好位につけて伸びたが、優駿牝馬下したニットウチドリに2馬身及ばず2着となった

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3 - 4歳(1977 - 78年)

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シービークロス」の記事における「3 - 4歳(1977 - 78年)」の解説

11月6日東京競馬場新馬戦吉永正人鞍上デビュー。1番人気に支持されたが、中位から直線伸びきれず4着となる。続く2戦目で吉永後方待機策をとり、直線鋭く伸びたが2着。以後シービークロス追い込み一辺倒となり、2週連続出走となった3戦目で先行馬を差し切り初勝利を挙げる年末には条件戦ひいらぎ賞を制し翌年クラシック三冠戦線向けた有力馬にも挙げられた。 翌1978年緒戦からオープン競走2戦をともに5着と敗れる。三冠初戦皐月賞4月16日)は、ある程度先行策でなければ勝ち目はないといわれる中山コース道中最後方から行き、勝ったファンタストから0.7秒差の5着で二冠目の東京優駿日本ダービー)への優先出走権得た日本ダービー5月28日)でも最後方を進み最後直線では追い込んで見せ場作ったものの、サクラショウリから約4馬身差の7着と敗れたその後俗に残念ダービー」ともいわれる日本短波賞で4着となり、休養入った担当厩務員青木一男によれば当時シービークロスまだ子供の身体つきであったという。 秋は京王杯オータムハンデキャップ3着を経て三冠最終戦菊花賞トライアルであるセントライト記念でも3着となり同競走への優先出走権を得る。しかし西下直前熱発して菊花賞断念自己条件戦回り3勝目挙げた。続くダービー卿チャレンジトロフィーではモデルスポートにクビ及ばず2着。年末にはグランプリ競走である有馬記念出走したが、10着と敗れシーズン終えた

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3 - 4歳(1972 - 73年)

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タケホープ」の記事における「3 - 4歳(1972 - 73年)」の解説

1972年3歳となり東京競馬場稲葉幸夫厩舎入厩馬インフルエンザ拡大影響で夏開催となった東京競馬場にて、7月15日新馬戦1100メートル)に嶋田功騎乗しデビューした。姉のタケフブキ優駿牝馬制した直後だったことから人気集め単勝1番人気での出走となり、逃げ馬捕らえて1馬身差の勝利を挙げたその後年末までに6戦に出走したが、いずれも勝利を挙げるには至らなかった。 1973年4歳となり初戦若竹賞(200万円以下)で2勝目挙げたその後皐月賞出走目指し東京4歳ステークス弥生賞出走するも、どちらも勝利には至らず皐月賞回避して休養入った4月15日行われた皐月賞では、ハイセイコー制し、9戦9勝とした。 4月28日東京競馬場行われた4歳中距離特別(2000メートル)に出走陣営東京優駿目指していたが、結果次第では東京優駿への出走危ぶまれる状況であったレースでは直線追い上げ逃げたサクラチェスをハナ差し切って勝利、この結果から東京優駿出走決定した騎乗した嶋田東京優駿向けてハイセイコー四ツ脚なら、こっちだって四ツ脚だよ」と発言周囲マスコミには皮肉としか受け取られなかったが、稲葉東京優駿について、それなりの勝算持っていたという。その後嶋田東京優駿1週間前の優駿牝馬ナスノチグサ勝利し優駿牝馬連覇果たしていた。その直後には「ナスノチグサよりも(東京優駿の)タケホープの方が自信あるくらいだよ」と宣言直前には稲葉タケホープ馬主近藤たけに入着約束するほどの自信見せていた。 5月27日東京優駿日本ダービー)に出走皐月賞後、NHK杯優勝して10連勝としたハイセイコー単勝支持率66.6パーセント占め当時東京優駿史上最高支持率更新した一方タケホープはその50分の1の支持率留まる9番人であったハイセイコー2枠5番からの発走で有利とされる内側から、またタケホープは不利とされる外側、721番からの発走となった序盤からボージェストホワイトフォンテンなど先頭頻繁に変わりハイペースとなったハイセイコーは中団馬群内側タケホープそれより後方位置したハイセイコー進路求めて外側転進第3コーナー付近早くも先頭直後まで進出していた。一方タケホープは、大外移り最終コーナー迎えた後方有利のペースのせいで伸びあぐねるハイセイコーを、残り200メートルイチフジイサミがかわし、それを合図タケホープ加速イチフジイサミをかわし1馬身4分の3差をつけ、先頭入線優勝した直後嶋田観客席方向右手上げて声援応えようとしていたが、人気集めたハイセイコー敗退観客の反応タケホープ一様では決してなかった。走破タイムは2分27秒8は、東京優駿レコードタイム更新。2着のイチフジイサミ、それからさらに3馬身遅れた3着はハイセイコーとなり、枠番連勝5 - 7イチフジイサミ - タケホープ)」は9560円と東京優駿史上高配当更新した稲葉嶋田コンビでは、前週優駿牝馬ナスノチグサ制していたため、2週連続でクラシック競走優勝果たした嶋田は、人気ハイセイコー返し馬を「猫のようにおとなしい」と認識し、この時点ハイセイコー敗退断定していたという。また勝因についてこう振り返っている。 21番も不利とは思いませんでした1,2コーナーはみんな行きたがるので思い切って下げて内を進む。3コーナーから外に持ち出すというオークス同様の作戦立てたが、思い通りに競馬できました。 — 嶋田功 東京競馬場厩舎夏休みとなり、クラシック三冠三冠目である菊花賞向けて9月24日関西渡った。秋初戦10月21日京都新聞杯始動しハイセイコーと再び顔を合わせたが、8着に敗退一方ハイセイコーは2着となった11月11日菊花賞参戦京都新聞杯直後10月24日嶋田調教中に落馬して右足骨折したため、武邦彦乗り替わったハイセイコーが1番人気に支持される中、タケホープは、前走の敗戦乗り替わりにより人気落とし6番人気という評価であったスタートからサチモシローが先手主張し前半1000メートルを65.2秒で通過する「超スローペース」(横尾一彦)の逃げ見せた出走15頭中、ハイセイコー3番手、対してタケホープは6番手につけていた。最終周回第3コーナーでは、ハイセイコー早めに動いてコーナー過ぎの下り坂先頭に立ち、直線コースでは馬場の最も内側選択した対してタケホープも、早めに進出して好位まで位置上げて直線差し掛かり馬場中央からハイセイコー追った。やがて内外2頭は並び立ち、同時に決勝線通過した写真判定結果、外のタケホープハナ先着していることが認められ東京優駿菊花賞優勝二冠馬となった。3着にはイチフジイサミ入り上位3頭は東京優駿と全く同じ3頭であった。武はこう振り返っている。 レコードダービー勝ちした馬なのに不思議人気がなかったね。ゴールハイセイコー差し返しに来たのは驚いたが、3コーナーからハイセイコー1頭を目標進めたので楽な競馬でした。 — 武邦彦 年末にはこの年優駿賞年度代表馬及び最優秀4歳牡馬選出され稲葉東京競馬記者クラブ賞受賞した

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3-4歳(1997-98年)

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エアジハード」の記事における「3-4歳(1997-98年)」の解説

1997年12月7日朝日杯3歳ステークス当日行われた中山競馬場新馬戦1200メートル)に武豊騎乗しデビュー3番手から抜け出し後方に3馬身半差をつけて初勝利を挙げるその後は、脚の炎症が治まらずに連戦できず、年をまたいだ1998年2月1日カトレア賞(500万円以下、ダート1200メートル)で復帰。クラシックを目標にしつつも、脚の負担少なダート参戦後方待機から直線で外から抜け出し1馬身半差をつけて入線連勝とする。再び間隔空けて3月22日皐月賞トライアル競走であるスプリングステークスGII)に2番人気出走5枠8番ゲート収まったが、暴れてしまい鼻を負傷、さらに出遅れスタートとなったスローペース最後方から追い込むも、先行馬には届かず4着。3着までに与えられる優先出走権獲得できず、発走調教再審査処分下された。 この敗戦距離適性マイルから2000メートル考えていた伊藤は、吉原にクラシック出走断念提案し受け入れられた。続く目標NHKマイルカップ出走切り替え騎手橋本広喜騎乗し矯正発走調教再審査合格した5月17日NHKマイルカップ橋本とともに10番人気出走スタート決めたが、直線伸びず8着。ただ勝利したエルコンドルパサーなど上位7頭は、いずれも外国産馬であり、内国産馬としては最先着を果たしたその後休養社台ファーム夏休みとなった10月18日東京競馬場900万円以下(1600メートル)で復帰し1馬身半差をつけて3勝目11月14日奥多摩ステークス1600万円以下、1400メートル)はクビ差で4勝目挙げる脚部不安の心配が見られなかったことから、4勝目から2週間後の11月28日スプリンターズステークス前哨戦である富士ステークスGIII)に参戦する15頭が出走する中、前年安田記念3着の5歳スピードワールドが3倍台の1番人気、セントウルステークス3着の6歳馬シンボリフェザードが4倍台、イギリスから遠征外国調教馬モーリス・ド・ゲスト賞(G1)3着のムシェアが5倍台と続きエアジハード6.2倍の4番人気推されていた。3枠5番からスタート決めて先行し、好位内側最終コーナー通過直線抜け出した大外から6番人プレストシンボリ迫り内外並んで競り合いとなったが、エアジハードクビ振り切って先着重賞初勝利挙げた橋本は「相手合わせるズルい面があって、今回はその相手強かっただけに半信半疑臨みましたが、今まで以上に頑張ってくれました。(中略本当に接戦に強い。まだ4歳ですし、これからどれだけ強くなっていくのか楽しみです。」。伊藤は「完成するのは先になると思いますが、来年タイキシャトル後釜狙える馬。そう思っているんですよ。」と発言タイキシャトルは、この前年に5戦4勝。フランスマイルG1競走ジャック・ル・マロワ賞勝利したほか、日本国内では安田記念マイルチャンピオンシップ勝利マイルチャンピオンシップ連覇達成したうえ、その年の国内春秋マイルGI独占して引退していた。富士ステークスの後のエアジハードは、スプリンターズステークスには出走せずに休養来年春の目標安田記念とした。

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3-4歳(1984-85年)

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スダホーク」の記事における「3-4歳(1984-85年)」の解説

1984年11月3日東京競馬場新馬戦1800メートル)に田村正光騎乗しデビューし、3着に敗れた。続く2戦目でクビ差を制して勝利を挙げ、3戦目の葉牡丹賞(400万円以下)では逃げ切り2連勝とした。1985年2連敗の後、3月3日弥生賞GIII)に5番人気評価出走した第3コーナー2番手につけ、最終コーナー先頭に立ち独走。1番人気のサクラサニーオーに4馬身差で重賞勝利果たした須田にとっても所有馬初の重賞勝利であった続いて皐月賞出走し後方待機から抜け出すことができず6着に敗れた5月26日東京優駿日本ダービー)に出走し田原成貴乗り替わった皐月賞制したミホシンザン骨折のために回避し、代わって皐月賞出走できなかったシリウスシンボリが1番人気に推され、続く2番人気であったスタートから後方待機し第3コーナー進路を内に取り最終コーナー先頭並びかけた。しかし、大外からシリウスシンボリかわされ、ついていけなかった。シリウスシンボリに3馬身差遅れ、追い込んだスクラムダイナハナ差だけ先着する2着となった田原はこう振り返っている。 直線先頭立って"いける"と思ったが、それも一瞬シリウスシンボリ)に交わされた〔ママ〕。相手強かった敗れた悔いはありません。 — 田原成貴 秋は、神戸新聞杯京都新聞杯どちらも5着に敗れた後、11月10日菊花賞出走スダホーク2番人気推された。東京優駿出走できず、1番人気に推されミホシンザンマークしながら最終コーナー達したが、ミホシンザンついていくことができなかった。1馬4分の1離されて、サクラサニーオーよりクビ差だけ先着した2着であった田原は「(前略勝ち馬とは瞬発力の差が出てしまった」と分析している。続く有馬記念では、シンボリルドルフミホシンザンニシノライデンに次ぐ4着に入った

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3-4歳(1955-1956年)

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ハクチカラ」の記事における「3-4歳(1955-1956年)」の解説

10月1日中山競馬場新馬戦デビュー八木沢勝美を背に、2着に4馬身差を付けて初戦勝利を挙げた以後中山開催連勝続け、5戦5勝で関東3歳王者戦・朝日杯3歳ステークス迎える。当日圧倒的な1番人気に支持されスタート切られる激し先行争い制し先頭レース進めた。しかし最後直線から並び掛けたキタノオーとの競り合い敗れ3/4馬身差の2着。初の敗戦喫してシーズン終えた以後キタノオーとは長くライバル関係となる。 休養の後、翌年3月末にオープン競走で2着となった後、4歳クラシック初戦皐月賞迎えた当年例年開催中山競馬場改装中のため、東京競馬場開催された。当日前哨戦スプリングステークス制していたキタノオーが1番人気、ハクチカラ2番人気となったが、レースでは全く見せ場のないまま、7番人気穴馬ヘキラク12着と大敗喫した競走後担当厩務員ハクチカラ慢性的な下痢改善しようと、尾形許可なく整腸剤投与していたことが判明担当ベテラン中沢徳次交代された。以後ダービー向けて態勢立て直し図られ中沢1日3時睡眠ハクチカラ看護当たった1ヶ月後、騎手保田隆芳替わったオープン競走勝利6月3日日本ダービー迎えた当日降雨重馬場となったなか、キタノオーヘキラクに次ぐ3番人気であったレース外枠入ったヘキラクキタノオースタート直後内側斜行し、煽り受けたエンメイ、トサタケヒロの2頭が落馬という展開で始まった。好スタート切っていたハクチカラこの影響を受けることなく先団5番手を進むと、最後直線キタノオー一気交わして先頭に立ち、そのまま独走。同馬に3馬身差を付けて優勝した騎乗した保田デビュー20年目でダービージョッキーとなったハクチカラは第2コーナー左前脚の蹄鉄落としていたといい、尾形は「それでよく走り通したものだと感心した」と述懐している。なお、スタート斜行落馬した2頭のうち、エンメイ競走能力喪失し騎乗していた阿部正太郎重傷負ったことから、この競走きっかけとして騎手調教師交えた事故調査委員会組織され競馬施行規定改正人馬救護体制強化パトロールタワー監視塔)の設置といった改革が行われた。競走中の斜行禁止充分な間隔がない中での内側からの追い抜き禁止といった騎手御法についての規制もこのとき定められている。 夏の休養経て9月復帰緒戦オープン戦制した後、セントライト記念では勝ったキタノオーから1馬身余の4着。その後、クラシック最終戦菊花賞備えて京都競馬場入りオープン戦勝って菊花賞臨んだ当日圧倒的1番人気のキタノオーに次ぐ2番人気支持されたが、後方待機策から最後直線鋭く伸びたキタノオー対しハクチカラは中団から伸び欠いて5着に終わった菊花賞の後は関東戻りカブトヤマ記念ハンデキャップ競走連勝年末には当年創設されファン投票によるオールスター競走中山グランプリ出走出走12頭中の8頭が八大競走優勝馬という顔触れで、当日5番人気であったレースは1番人気のメイヂヒカリが2着キタノオーに3馬身半差を付けて圧勝ハクチカラは中団からミッドファーム、ヒデホマレと馬体接して入線し、両馬からハナハナ差の5着でシーズン終えた

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3-4歳(1976-1977年)

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ラッキールーラ」の記事における「3-4歳(1976-1977年)」の解説

1976年6月札幌競馬場デビュー予定していたが、身体大きいことから先送りとなった8月15日函館競馬場新馬戦デビュー伊藤正徳騎乗し3着、続く2戦目の新馬戦も2着に敗れた10月中山競馬場未勝利戦で初勝利、続く白菊賞カネミノブ敗れて2着となったが、さざんか賞で2勝目ひいらぎ賞はプレストウコウ敗れて2着となった4歳となった1977年1月京成杯2着、2月東京4歳ステークス4着とどちらもヒシスピード敗れた3月弥生賞では初め拍車装着して出走5番人気支持された。逃げの手出てカネミノブプレストウコウ退けて優勝弥生賞レコードでの重賞初制覇となった皐月賞は、4番人気出走逃げて先頭直線進入したが、ハードバージが内からかわされ、それから2馬身半差をつけられた2着に敗れた伊藤は「ゴールまであと600メートル地点では勝てると思ったが、外からくる馬にばかり気を遣っていたら(福永洋一の馬に内を衝かれた。じわじわくる馬には強いが、一気にこられてなす術がありませんでした。(カッコ補足加筆者)」と回顧している。続く東京優駿向けてトライアル競走NHK杯に1番人気で出走し先行したもののプレストウコウそのほか2頭に交わされ4着に敗れた5月29日東京優駿日本ダービー)に出走28頭立て724番という外枠からの発走となり、単勝9番人気の支持であった発走直後先頭立ったが、大外のワールドサバンナにハナ奪われ2番手で進んだ最終コーナーにかけてワールドサバンナとの差を縮め直線では内から位置上げたカネミノブ並び先頭争いとなった。やがてカネミノブ下したが、外から1番人気のハードバージ迫りラッキールーラ並びかけたところで決勝線通過した直後ハードバージ伊藤雄二調教師勝利を確信していたが、写真判定結果ラッキールーラアタマ先着認められた。 尾形は、14年ぶりの東京優駿制覇であり、フレーモア1934年トクマサ1936年クリフジ1943年クリノハナ1952年ハクチカラ1956年ハクショウ1961年メイズイ1963年)に続いて8勝目。また伊藤は父伊藤正四郎トクマサ1936年)で制しており、親子制覇となったその後は、夏休み東京競馬場厩舎過ごした。 秋は10月中山競馬場オープン競走始動逃げ切り勝ちし、その3日後に関西遠征した。菊花賞前哨戦とした京都新聞杯は、単枠指定制度対象となり1番人気で出走逃げ出たが、プレストウコウかわされ1馬身半差の2着。目標菊花賞追い切り内容よかったことも手伝って1番人気で出走したハイペース2番につけたこともあり、直線では全く伸び15着に敗れた伊藤は「僕の騎乗ミスだったのかな」と振り返る一方尾形は「(伊藤正徳責任はない。結果論かもしれんが、長距離向きではなかった。2400メートルまでの馬だったんですな」としている。 12月入って左前脚に深管骨瘤を発症長期戦線離脱となり、福島県いわき市JRA競走馬総合研究所常盤支所にある「馬の温泉」や北海道早来町吉田牧場快復図った

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3-4歳(1984-85年)

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クシロキング」の記事における「3-4歳(1984-85年)」の解説

1984年9月1日函館競馬場新馬戦1200メートル)で安田富男とともにデビューしたが、4着敗退12月、4戦目の未勝利戦2000メートル)で好位追走から後方に3馬身半差をつけて初勝利となった2週間後のひいらぎ賞(OP)では2着に敗れたが、1985年1月6日若竹賞を4馬身差で制して2勝目となった3月24日重賞初挑戦となるスプリングステークスGII)は7着。皐月賞GI)は13着に敗れた続いてNHK杯GII)を叩き台東京優駿日本ダービー)(GI)に参戦する予定であった。しかし、5月2日調教後に右第一指骨剥離骨折判明し全治3か月診断から、NHK杯東京優駿ともに回避した療養から明けた10月26日東京競馬場赤富士賞(900万円以下)で復帰し2着。12月1日900万円以下を逃げ切り2馬身差の3勝目挙げ12月15日冬至特別(900万円以下)で4馬身差をつけて連勝とした。

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3-4歳(1985-1986年)

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ダイナアクトレス」の記事における「3-4歳(1985-1986年)」の解説

1985年、母と同じ矢野進厩舎入り8月11日函館デビュー初戦を5馬身差で圧勝すると、続くすずらん賞函館3歳ステークスそれぞれ6、5馬身差で制する函館3歳ステークス競走後、深管不安により3戦のみでシーズン終えたが、圧倒的なスピードに、翌4歳シーズンには牡馬相手となる皐月賞東京優駿日本ダービー)への出走検討された。 迎えた1986年春、前年最優秀3歳牝馬メジロラモーヌ勝利することを念頭に陣営牝馬クラシック路線選択桜花賞への前哨戦として、すみれ賞復帰した。しかし発走前に入り執拗に嫌がり、さらに枠内後ろ脚蹴り上げゲート側面の台に乗り上げパニック状態となる。馬体検査結果異常なしとされてレース臨んだが、最下位大敗した競走後には入り不良理由に、日本中央競馬会 (JRA) より1ヶ月間の出走停止調教再審査言い渡され桜花賞出走する機会失った。 続く優駿牝馬オークス)での巻き返し期して美浦トレーニングセンター離れオークス開催場東京競馬場での調整図られた。しかし馬が環境変化順応できず、ストレス掛かるゲート練習続いたために体調を崩すメジロラモーヌとの初対戦となったサンスポ賞4歳牝馬特別(オークストライアル)では、同馬から1馬身半差の2着、続く優駿牝馬オークス)でも同じく3着に敗れクラシック制覇は成らなかった。 休養経ての秋初戦ローズステークスメジロラモーヌとの3度目対決になるはずだったが、競走前の最終調教股関節痛めて出走取り消しそのまま4歳シーズン終えたその後メジロラモーヌ史上初の牝馬三冠達成当年限り競走生活から退いている。

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3-4歳(1987-88年)

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ヤエノムテキ」の記事における「3-4歳(1987-88年)」の解説

3歳前に荻野厩舎入厩し、夏の函館競馬場開催デビューする予定であったが、後肢成長が十分でなかったことから延期栗東戻り立て直したためにデビュー4歳2月となった阪神競馬場ダート1700メートル新馬戦に、西浦勝一騎手鞍上出走3番手から直線で前2頭をかわすと、後方に7馬身離す独走状態で初勝利を挙げた。再びダート中京競馬場1700メートル沈丁花賞(400万円以下)では、2秒差、12馬身差という大差連勝した連闘初めての芝コース重馬場毎日杯GIII)に挑戦したオグリキャップペガサスステークスGIII)に続いて重賞連勝果たしその3馬身半ほど遅れた4着に敗れた出走必要な賞金の上乗せには失敗したものの、その後皐月賞GI)に登録。400万円以下を勝利したに過ぎないヤエノムテキは、出走馬決定順で16タイであった。同じ16位には同じ賞金の6頭がおり、フルゲート18に対して3頭超過していた。そこで、16位の6頭から出走できる3頭を選ぶ確率2分の1抽選実施されヤエノムテキ当選出走叶った単勝オッズ25.2倍の9番人気の支持、有利とされる1番からの発走だった。第2コーナーでメイブレーブ、マイネルフリッセによる斜行で1番人気のモガミナインが不利を受ける中、その影響を受ける事無くサクラチヨノオーマークしながら好位の4番手で進み直線鋭く脚を伸ばして2着のディクターランドに4分の3馬身差をつけて優勝したでのレース勝利GI及びクラシックであり、デビューから3戦で皐月賞制したのは、トウショウボーイ以来12年ぶりのことだった。 9番人気で皐月賞制したために評価急上昇東京優駿日本ダービー)に向けて次第取材メディア増え荻野後頭部円形脱毛症になるほどのプレッシャー感じていた。人気は、皐月賞回避したJRA賞最優秀3歳牡馬サッカーボーイ譲り2番人気最初のコーナーを6番手、中団から徐々に外へ持ち出して最後直線入った。しかし、内から抜け出したサクラチヨノオーメジロアルダン、コクサイトリプルなどを捕らえることができず、勝利したサクラチヨノオーに約3馬身離された4着、荻野敗因を距離に求めていた。 放牧出ず7月1800メートル中日スポーツ賞4歳ステークスGIII)に進み勝ったサッカーボーイに半馬身差の2着。2か月休養経て9月函館競馬場UHB杯(OP1800メートル)で復帰し金鯱賞GIII)を制したパッシングパワー、NHK杯GII)を制したトウショウサミットなど初対戦となる古馬に対して勝利した菊花賞前哨戦である京都新聞杯GII)も制して菊花賞GI)に挑んだダービーサクラチヨノオー屈腱炎戦線離脱サッカーボーイ短距離路線に、オグリキャップ古馬相手挑戦これまで敗れた相手参戦がなく、皐月賞馬かつ前哨戦勝利するなど順調であったことから1番人気に推された。6番手につけて直線コース追い込み図った失速10着に敗れた距離適性改め確認するために、有馬記念ではなく当時2500メートル行われていた鳴尾記念GII)を選択しハナ差の接戦制して重賞3勝目挙げた

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3-4歳(2000-01年)

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ダンツフレーム」の記事における「3-4歳(2000-01年)」の解説

2000年6月10日函館競馬場新馬戦ダート1000メートル)に藤田伸二とともに、1番人気でデビュー先に抜け出した1頭に4馬身差を離されて2着となった。それから7月1日、同条件である2戦目の新馬戦では差し切りを果たし、初勝利続いて9月16日ききょうステークスOP)では武豊乗り替わり、初の競走となったが、単勝オッズ1.4倍の1番人気に推され出走後方待機から最終コーナー抜け出し後方に3馬身半差をつけて2連勝とした。さらに9月30日野路菊ステークスOP)では、河内洋乗り替わり単勝オッズ1.2倍で出走。半馬身差をつけて3連勝とし、放牧出された。 4歳となった2001年は、2月11日きさらぎ賞GIII)で始動3番人気出走した直線抜け出したが、若駒ステークスOP)など2戦2勝の1番人気、アグネスゴールドに半馬身かわされて2着。その後は、皐月賞トライアル競走ではなく2月24日アーリントンカップGIII)を選択単勝オッズ1.2倍の支持集めた後方待機し最終コーナー7番手で通過して追い上げ開始逃げるキタサンチャンネルにゴール直前並びかけたころで入線ハナ先着しており、重賞初勝利果たした続いて皐月賞GI)に出走藤田に再び乗り替わった。3戦3勝アグネスタキオンが1.3倍、4戦3勝ジャングルポケットが3.7倍となり2頭が一桁オッズとなる中、ダンツフレームはそれらに次ぐ3番人気オッズ16.8倍という支持であった発走直後から中団につけていたが、最初のコーナーから進路塞がれたり、接触したりする不利をもらいながら追走直線では、好位のアグネスタキオン先に抜け出しダンツフレームはその背後から追い上げたアグネスタキオンには1馬身半を及ばなかったが、外から追い上げたジャングルポケットとの競り合い制し、半馬身差の2着を確保した。 そして、5月27日東京優駿日本ダービー)(GI)に河内洋乗り替わり出走した河内皐月賞優勝導いたアグネスタキオンは、屈腱炎のために戦線離脱当日人気では、皐月賞2着のダンツフレーム単純に繰り上がることなく単勝オッズ6.1倍の3番人気に留まった。人気上回った2頭は、同3着のジャングルポケットNHKマイルカップ優勝から臨むクロフネであり、それぞれオッズは2.3倍、3.0倍を示した。中団で待機し直線では外に持ち出して追い上げた河内仕掛けようとした際、同じく中団を進み先に抜け出そうとしたジャングルポケット進路塞がれる不利も受けた。それから再び盛り返したものの、ジャングルポケットに並ぶことはできず、1馬身半差の2着となった夏休み経て、秋は神戸新聞杯GII)から始動し、4着。続く菊花賞GI)は、ジャングルポケットに次ぐ2番人気支持で5着。古馬との初顔合わせとなったマイルチャンピオンシップGI)も5着。止まらない連敗から立て直しを図るために、山内目標定めず放牧実施年内全休とした。

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3-4歳(1982-83年)

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ドウカンヤシマ」の記事における「3-4歳(1982-83年)」の解説

1982年9月4日函館競馬場新馬戦1000メートル)に1番人気の支持デビュー直線抜け出し後方に7馬身差をつけて初勝利となった条件戦制して連勝とし、府中3歳ステークスでは1番人気に推されながら4着と初め敗戦した。 11月7日京成杯3歳ステークスでは重賞優勝馬抑えて1番人気に支持された。ハイペースの展開の中、好位に位置直線抜け出そうとするも、好位または後方から追い上げてきた3頭と横並びとなった。特に、内から伸びたデアリングパワーとは馬体併せて決勝線通過した写真判定結果ドウカンヤシマ先着認められ重賞初勝利となった騎乗した郷原洋行は「あの位置なら、直線もっと伸びなきゃいけない。勝ったけど納得しないよ」と回顧している。それから朝日杯3歳ステークス臨み11着に敗れた1983年2月13日共同通信杯4歳ステークス始動するも、13敗退その後は、クラシック路線歩む予定であったが、スプリングステークス発馬機暴れて鼻出血発症し競走除外出走停止処分を受け、皐月賞東京優駿日本ダービー)への出走は叶わなかった。 出走停止明け3連敗の後、8月21日函館記念大塚栄三郎騎乗し負担重量51キログラム出走皐月賞優勝ハワイアンイメージ桜花賞優勝ブロケードリーゼングロス相手逃げ一時2番手に6馬身差をつけるなど独走した直線入って先頭保ち追い上げてくる後方勢に2馬身半差をつけて先頭入線重賞2勝目挙げた13頭立て11番人気支持受けており、単勝式2060円、枠番連勝5770円の高配当記録した。秋は、セントライト記念京都新聞杯連続3着を記録し菊花賞ではクラシック出走果たしたが、悪い癖出ていつもの力を発揮できず、17着に敗れた年末には、オープン競走出走する10着に敗退した

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3-4歳(1990年-1991年)

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トウカイテイオー」の記事における「3-4歳(1990年-1991年)」の解説

12月1日中京競馬場新馬戦デビュー松元ダービー見据えて東京競馬場と同じ左回り経験させよう中京コース選ばれ騎手松元厩舎の馬に多く騎乗しデビュー前調教も本馬に乗って自ら騎乗志願した安田隆行務めた当日調教での動き良さ評価され単勝1番人気に支持されると、不良馬場、また先行した馬が有利とされている小回りコースありながら後方レース進め徐々に前方進出して最後直線で内から鋭く抜け出し安田手綱抑える余裕見せて4馬身差をつけて勝利した安田レース後に興奮気味に「手ごたえ余裕があり、楽勝でした」とコメントした。次走のシクラメンステークスは3番人気となったものの、後方追走から残り800m標識付近で前走同様前方進出、4コーナー逃げた1番人気のイイデサターンをかわして先頭に立つと、後続に2馬身の差をつけてそのまま押し切りデビュー2連勝記録した。 シクラメンステークス後、松元東京優駿までのローテーションについて、無理に強敵相手にして消耗するトライアル競走には出走させず、2000mのレーストウカイテイオー出走させることを決定した1991年1月若駒ステークスでは単勝オッズ1.3倍と圧倒的な1番人気に支持され、中団追走から向こう正面一気前方との差を詰めて3コーナー先頭並びかけると、後を追ってきたナイスネイチャ、イイデサターンを突き放しタイムを同距離の前走から2秒4縮めて3連勝果たした安田若駒ステークスについて、「東に行って間違いなく通用する大きところに出て勝負できると、はっきり自信つきました」と振り返っている。これでテイオーはクラシックへの有力候補として、またシンボリルドルフ初年度産駒逸材として注目を集めるようになった若駒ステークス後、松元の「厳寒期に無理をさせたくない」という意向から2か月間隔置かれ3月東上緒戦若葉ステークス出走した。2週前の弥生賞レース後に勝利したイブキマイカグラ鞍上南井克巳が「関西にはもう一頭強い馬がいる」とトウカイテイオー評したコメント関東ファンにも知られていたことで、当日生涯最高となる66.28パーセント単勝支持を受け、単勝オッズ1.2倍を記録したスタート直後スロー流れ引っ掛かってしまい安田の手を焼かせたものの、4コーナー手前先頭伺って直線に入ると抜け出し、2着のアサキチに2馬身差で勝利を収めたデビューから4連勝、全戦で一度も鞭を使われない完勝という内容で、牡馬クラシック初戦皐月賞迎えることとなった皐月賞当日4月14日は、重賞未勝利馬ながら前年2歳GI阪神3歳ステークス優勝馬イブキマイカグラとともに単枠指定を受ける。単勝オッズ前哨戦弥生賞制していた同馬を抑え2.1倍で1番人気に支持された。イブキマイカグラ5枠11番入ったことに対しトウカイテイオー大外18番入ったため戦前は不利という見方をされたが、影響荒れていた内馬場通らずに済むのでかえって有利ではないかという見方もあり、陣営は「押し込められる険のある1番よりはましだ」と考え安田も「揉まれないからかえていいんじゃないだろうか」と考えていた。スタート切られるトウカイテイオー先行策をとり、馬場外目通って前半道中7・8番手につけ、第3コーナー大外回って前方進出し最後直線早め先頭に立つと2着のシャコーグレイド16番人気)に1馬身差をつけて優勝ゴールでは鞍上安田手綱抑える余裕見せてクラシック初戦制した競走後記念撮影において、安田シンボリルドルフ主戦騎手岡部幸雄倣い馬上で「まず一冠獲得」を意味する人差し指掲げ、「三冠獲り」を宣言した。 クラシック第2戦となる東京優駿1週間前になると、スポーツ新聞競馬トウカイテイオー東京優駿を勝つことが既成事実のように報じ前日土曜日馬券前売りが始まると、単勝複勝共にトウカイテイオー入った820番絡み連勝馬券飛ぶよう売れ単勝は2倍を切った迎えた東京優駿当日5月26日最終的な単勝オッズ皐月賞上回る1.6倍と圧倒的な支持集めたレーススタート直後スムーズに6番手につけ、直線大外から抜け出す最後後続突き放し、2着レオダーバンに3馬身差の快勝史上15頭目となる二冠馬となり、父シンボリルドルフと同様、無敗のまま二冠達成した競走後には祝福の「ヤスダコール」が起こり安田記念撮影皐月賞続いて馬上二本指掲げた安田は「ダービーに関しては(シンボリルドルフより)テイオーの方が強い勝ち方だったのでは」と語り自身騎乗についても「自分でも満点騎乗だったと思います」と回想している。レオダーバン騎乗した岡部幸雄は「(安田が)3、4ミスしてくれても敵わなかった」と述べたシンボリルドルフ調教師野平祐二は、「レースぶりはルドルフより余裕があった」と称えた。また東京優駿で8の馬が1着となった史上初の事例となった競走後には親子二代無敗クラシック三冠達成への期待大きく高まった。しかしテイオーは、表彰式終えて競馬場内の出張馬房に戻る時点歩様に異常を来しており、診療所レントゲン撮影が行われた。レントゲン結果、左後脚骨折判明3日後には公式に「左第3足根骨骨折全治6か月」と発表され年内休養最後の一冠・菊花賞断念余儀なくされた。トウカイテイオー骨折ニュースNHK一般ニュースと同じ扱い大きく伝えた安田は「天国から地獄突き落とされ気分でした」と振り返ったが、松元は「ダービーの前でなくてよかった、そう前向きに考えるようにしました」と振り返っている。 翌年1月発表されJRA賞では、無敗二冠高く評価され176名の記者投票のうち134票を獲得して年度代表馬選出され、さらに最優秀4歳牡馬、5頭のGI優勝馬抑えて最優秀父内国産馬にも選出された。また中央競馬フリーハンデでは、古馬メジロマックイーン上回る65キログラム (143 lb)を与えられ当年最高評価となった

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3-4歳(1952-1953年)

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ハクリヨウ」の記事における「3-4歳(1952-1953年)」の解説

1952年11月8日東京競馬場新馬戦デビュー保田隆芳鞍上臨んだが、同郷トキツの3着に敗れた競走後には大型馬ゆえに持病としていた裂蹄慢性化し、休養に入る。翌年3月復帰後、5万下条件戦(未勝利戦)で初勝利を挙げる。続く条件戦3着を挿み、次走で二本柳俊夫鞍上迎える。ここから2戦を連勝し4月26日にクラシック初戦皐月賞臨んだ当日前哨戦スプリングステークス制していた牝馬チエリオが1番人気、本馬はそれに次ぐ2番人気支持された。レースでは先行策から最後直線半ばトキツ交わして先頭立ったが、直後同郷ボストニアン7番人気)に差され1馬身差の2着に終わった。続くNHK杯では1番人気に支持されたが、ボストニアンに3馬身突き放され再度の2着。迎えた東京優駿日本ダービー) ではボストニアン人気逆転2番人気となる。レースでも同馬に後れを取り、さらに8番人気のダイサンホウシュウも交わせず3着に終わった競走後秋に備えて休養入ったボストニアン対しハクリョウ盛夏迎えるまで走り続け翌週連闘臨んだオープン戦を8馬身差で圧勝7月5日出走した中山4歳ステークスでは、2000m2分6秒1のコースレコード記録したその後2ヶ月休養取り復帰戦のカブトヤマ記念を5馬身差で勝利続いてクラシック最後の一冠・菊花賞向けて関西移動し前哨戦オープン戦出走した。ここでボストニアンと秋の初対戦となったが、1馬身半差で敗れて同馬に4連敗喫する11月23日迎えた菊花賞は、戦前から「ボストニアン三冠確実」と喧伝され、秋から再びハクリョウ主戦戻った保田隆芳も「馬(ハクリョウ)は強いが年回りが悪いよ」と、半ば諦めを口にしていた。当日も同馬が圧倒的な1番人気に支持されたが、レースではコース2周目の第3コーナーからハクリョウ先頭に立ち、後続突き放すそのままゴールまで押し切りボストニアンに3馬身差を付けて優勝5度目対戦初めて同馬を下す同時に史上2頭目クラシック三冠阻止した

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3-4歳(1988-89年)

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オサイチジョージ」の記事における「3-4歳(1988-89年)」の解説

3歳となった1988年9月11日阪神競馬場新馬戦1200メートル)でデビューアイドルマリーに5馬身後れを取る2着となった。続く9月25日、2戦目の新馬戦も2着。連闘して10月2日、3戦目の新馬戦では、後方10馬身差をつけて初勝利を挙げたその後は、もろく、回復力乏しい爪のせいで出走することができず、翌1989年春まで放牧となった4歳は、4月22日のあずさ賞(400万円以下)で始動し2勝目5月14日葵ステークスOP)も制して3連勝とした。続く6月4日には関東遠征しニュージーランドトロフィー4歳ステークスGII)で重賞初挑戦東京優駿日本ダービー)には出走せず、土門は「長い距離に慣れさせるのは秋から。でも、勝って帰らなきゃ意味ない」と考えた上で参戦し単勝オッズ3.6倍の1番人気に推された。スタートから好位の内側位置直線では前方塞がれ進路馬場外側求めてから追い上げたが、スムーズに抜け出した7番人気アクアビットに半馬身以上及ばず3着。騎乗した丸山勝秀は「ボク大失敗だったんです。うまく乗っていれば勝てレースなんです」と回顧している。 それから7月2日中日スポーツ賞4歳ステークスGIII)に出走東京優駿で1番人気5着となったロングシンホニーが単枠指定制度対象となり、単勝オッズ2.1倍の1番人気の支持4.5倍のマルセイグレートを挟みオサイチジョージは、4.8倍の3番人気であったスタートから先行して4番手、同じく先行したマルセイグレートの後方外側追走。ロングシンホニーは、オサイチジョージ背後位置した第3コーナーからマルセイグレートが逃げ馬かわして抜け出し直線ではオサイチジョージとロングシンホニーがそれを追う形となった。ロングシンホニーは伸びあぐねる一方オサイチジョージ末脚見せて差を詰め決勝線手前でマルセイグレートを差し切り入線クビ差をつけて重賞初勝利果たした。 夏は厩舎過ごし9月24日神戸新聞杯GII)で復帰単枠指定となり、単勝オッズ1.9倍の1番人気で出走した出走14頭の12番から発馬して先行し3番手に位置最終コーナーから直線抜け出して先頭に立ち、さらなる脚で以て後続との差を広げたバンブービギンムービースター追って来たものの、それらに3馬身上の差をつけて入線重賞連勝とした。土門は、秋の大目標を3000メートル菊花賞にするか、1600メートルマイルチャンピオンシップにするかを決めかねていたが、この勝利をきっかけ菊花賞狙い定めた続いて10月15日菊花賞トライアル競走である京都新聞杯GII)に出走東京優駿優勝馬ウィナーズサークルとともに単枠指定となり、単勝オッズ1.8倍の1番人気、ウィナーズサークルが4.8倍の2番人気であった発馬控えて、中団を追走し、直線では、馬群突っ込んで内から追い上げた馬群捌き進路確保した残り100メートルからは、先頭のリアルバースデー目指して特に伸び、リアルバースデーにはクビ先着。しかし、終始オサイチジョージ背後をとってマークし直線では大外持ち出した5番人気バンブービギン追い込みには敵わず、バンブービギン1馬4分の1差の2着。菊花賞優先出走権獲得した。 それから11月5日菊花賞GI)に出走。3.8倍の1番人気にバンブービギン4.1倍の2番人気ウィナーズサークルオサイチジョージは5.7倍の3番人気という評価であったデビュー以来騎乗し続けた丸山騎乗停止中だったため、西浦勝一乗り替わって参戦したスタートから先行し3番手に位置第3コーナーから最終コーナーにかけて追い上げ先行馬を外から捕らえかかったが、失速。外から伸びて抜け出したバンブービギンに、7馬身以上離され12着に敗退した

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3-4歳(2008-2009年)

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アドマイヤコマンド」の記事における「3-4歳(2008-2009年)」の解説

体質弱さなどからデビューが遅れ、3月16日阪神競馬場行われた3歳新馬戦デビュー戦となり、レースでは2着馬に7馬身差をつけて圧勝して勝利を挙げた。2戦目は中1週で格上挑戦となる毎日杯出走することになったデビュー2戦目での重賞初挑戦ながら1番人気に支持されたが、レースではディープスカイ敗れて2着だったものの収得賞金加算しオープン馬となった。次は皐月賞レース2週間前に行う予備出走登録していたが、レース出走回避し東京優駿トライアル青葉賞出走し2番人気レース制してデビュー3戦目で重賞初勝利挙げ東京優駿への優先出走権獲得した。そして迎えた大一番東京優駿では4番人気支持されたが、レースでは最後直線伸び切れず7着という結果終わりレース後はリフレッシュ放牧出された。帰厩後は9月初旬から坂路調整進められ、秋は神戸新聞杯経て菊花賞出走するプラン調教師サイドから発表されていたが、9月18日左前屈腱炎発症したことが明らかになり長期療養強いられることになった

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3-4歳(1972-73年)

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カミノテシオ」の記事における「3-4歳(1972-73年)」の解説

1972年9月3日中山競馬場新馬戦1000メートル)に岡部幸雄騎乗し単勝3番人気デビュー後方から追い上げて、2馬身半差をつけて初勝利を挙げた続いて条件戦京成杯3歳ステークス敗退の後、11月5日東京競馬場条件戦1馬4分の1差で2勝目挙げたその後朝日杯3歳ステークス出走するはずだったが、調教での怪我により回避した。しかし、長期離脱には至らず年末オープン競走にも出走した1973年4歳となり、1月14日京成杯に1番人気で出走後方待機選択し最後直線では5番手ほどに位置から抜け出していたニューサントに外から並びかけた。2頭並んで入線したが、カミノテシオ写真判定によりハナ先着していることが認められた。騎乗した加賀武見は「直線競り合いになった時、勝てると思いました並んだ絶対に負けないのがムーティエ産駒のよさです。(中略馬ごみママ〕にもまれて強いし、追えば確実に伸びてくるあたりは実に頼もしい。」と評している。 続いて3月4日弥生賞出走大井無敗の6連勝達成した後、中央競馬移籍したハイセイコー注目集まり1番人気となり、一方カミノテシオ3番人気であった後方待機から、好位のハイセイコー目指し追い上げたが、並ぶことなく4着に敗れた競走中に右前脚をぶつけて球節を傷つけていたため、仕上がることがないまま皐月賞出走し7着敗退騎乗した加賀は、終始馬群中に位置したことを敗因としていた。 5月3日東京競馬場マイルオープン競走で、中団から5馬身の差をつけて4勝目挙げた。この勝利高橋は「東京コース2400メートルなら、この馬の良さ十分に発揮できると思う」と話していた。5月27日東京優駿日本ダービー)に出走予定し日曜日発走前に1枠3番枠順与えられた。横尾一彦によれば木曜日調教では「絶好動き」を見せており「ストップ・ザ・ハイセイコーの筆頭」と評されていたという。しかし、土曜日軽め調教最後仕上げをした後に歩様おかしくなり、右前球節炎診断受けて東京優駿出走取消。それから、治癒まで長引き1年以上長期休養となった

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3-4歳(2011-2012年)

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ミトラ (競走馬)」の記事における「3-4歳(2011-2012年)」の解説

その後2012年3月までダート戦を使われた。ダート7戦目となる4歳以上1000万下までダート1200m戦で3勝を挙げた後に、 デビュー戦以来となるレースであるフリーウェイステークスをレコード勝ちし、主戦場変える。次走のテレビユー福島賞、長岡ステークスでは敗れたものの、紅葉ステークスではデビュー以来となるスミヨンを鞍上に1着。オープン馬となった。だが、昇級初戦のオーロカップは3/4馬身及ばず2着となった

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3-4歳(1989-90年)

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メジロライアン」の記事における「3-4歳(1989-90年)」の解説

1989年7月9日函館競馬場新馬戦1200メートル)に柏崎正次が騎乗しデビュー道中真っ直走らせることに苦労して、勝ち切れず2着。2戦目の新馬戦は、6着に敗れたその後は、骨膜炎発症したために休養し、2か月出走しない間に馬体著しく良化ていった10月29日京都競馬場未勝利戦復帰鞍上には奥平の甥にあたり当時デビュー4年目見習騎手だった横山典弘乗り替わって出走し斜行して3着、以降横山主戦騎手となっている。続いて11月18日東京競馬場未勝利戦1600メートル)では初め後方待機策をとると、直線だけを使って先行馬をすべて差し切り、4戦目で初勝利を挙げた。それから12月3日葉牡丹賞(400万円以下)は安田富男騎乗して5着だったが、12月23日昇級2戦目のひいらぎ賞(400万円以下)にて横山騎乗し、再び後方待機から直線差し切り2勝目4歳となった1990年を、1月20日のジュニアカップ(OP)では、デビュー以来3連勝中でクラシック候補一角目されていたプリミエール差し切って3勝目。この勝利を機に陣営はクラシックへの手応えを得るようになったという。 続いて3月4日皐月賞トライアル競走である弥生賞GII)に出走前日まで降り続いたため不良馬場での開催となった相手には朝日杯3歳ステークス勝利し前年JRA賞最優秀3歳牡馬受賞したアイネスフウジンこの年2戦目であり、単勝オッズ1.9倍の1番人気、単枠指定制度対象となった対してメジロライアンは、5.7倍の2番人気推された。スタートからアイネスフウジン先行して逃げる中、メジロライアン後方位置直線では、アイネスフウジン馬場の悪い内側嫌って外にも出す一方で、内を突いて追い上げ馬群から抜け出すと、アイネスフウジン残り200メートル地点で内からかわして先頭となった。それから、外からツルマルミマタオーの追撃を半馬身かわして入線重賞初勝利皐月賞優先出走権獲得した横山は、入線する直前ガッツポーズ。「ゴール瞬間この先全部見えたがしましたね。皐月賞も、ダービーも」と発言。後に横山は、この時クラシックを意識したかとの問い対し、「全部勝てると思った(笑)」と改め回顧している。

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3-4歳(1982-1983年)

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シャダイソフィア」の記事における「3-4歳(1982-1983年)」の解説

同年8月7日函館競馬場新馬戦1200メートル)でデビュー猿橋鞍上に、2着に10馬身差をつけ、従来レコード0.5短縮する1分10秒3というタイムで初勝利を挙げた。続く函館3歳ステークスは、降りやや荒れた馬場状態だったが、単勝オッズ1.2倍の高い支持応え快勝した当時すでに渡辺本馬目標桜花賞据えており、消耗を防ぐために一旦休養出された。2カ月半後に出走した関西3歳王者戦・阪神3歳ステークスでは、ニホンピロウイナーなど牡馬強豪に交じって3番人気推された。レースでは、直線で一旦は先頭立ったものの失速し、6着に終わった。しかし、この頃から渡辺公に目標桜花賞」と明言しシャダイソフィア翌春備えて再度休養入った。 翌1983年3月復帰戦として4歳牝馬特別桜花賞トライアル)に出走調整途上であったが、前哨戦使われてきた他馬に伍してダスゲニーの3着とまずまず走り見せた。この結果に、猿橋渡辺は「本番は必ず勝てる」と、さらに自信深めた語っている。 4月10日桜花賞は、降雨のため不良馬場行われた当日人気は、同じく社台グループ出身馬のダイナカールと、重賞2連勝中のダスゲニーに次ぐ3番人気推された。メジロハイネの発走枠内での駐立と、この影響による発走遅延苛立ったダイナカール入り拒んで13分遅れの発走となったが、シャダイソフィア落ち着いた状態でスタート迎えたレース終始好位につける展開となり、直線入り口先頭に立つと、追走するミホクイーン、ダイナカール抑え勝利した猿橋渡辺はいずれもこれが初めての八大競走制覇猿橋唯一の勝利であった吉田善哉社台の2頭の好走喜びレース後の口取り式は、ダイナカール加えて行われたこの後牝馬クラシック二冠目標となる優駿牝馬オークス)に向かうと見られていたが、牡馬相手となる東京優駿日本ダービー)への出走発表された。戦前から戦後期のしばらくは牝馬の出走もしばしばあり、優勝も2例存在したが、1983年からの過去20年には出走例はふたつで、また成績芳しくなかった。この発表受けてマスコミからは暴挙であるとする声もあがった桜花賞不在となったオークスダイナカール優勝し馬主社台レースホースは初の八大競走勝利を挙げた。この翌週日本ダービー迎えたが、シャダイソフィア当日14番人気低評価で、結果勝ったミスターシービーから3秒離され17着と大敗社台渡辺には改め批判集まったシャダイソフィアダービー出走させたことについて、吉田善哉長男・照哉は、以下のような発言行っている。 「あのころウチには、大きな焦りがあったんだよね。何十年もリーディング・ブリーダーの座を保ち続けてはいるものの、どういうわけだかダービーだけには縁がなかったんだ。いままで20挑戦してるけど、ことごとく討ち死にしてきたから、ボクらしてみれば、恥という気持ちすらあったよ。(中略83年ダービーで好勝負できるような男馬がいなかったから、クラシックを取った女馬に賭けてみよう、という気になったんだよね。いま思えばソフィアのためには決しいいことじゃなかったんだけど……。渡辺先生にも無理なお願いをして、本当に申し訳なかった思ってる」 — 瀬戸慎一郎『悲劇サラブレッド』より 渡辺によれば吉田善哉シャダイソフィアダイナカールのどちらをダービー振り分けるかを迷っていたといい、最終的には同じグループ一口馬主クラブ所有するダイナカールに一冠を取らせたいと思ったのだろうと語っている。なお、社台ファーム1986年ダイナガリバーダービー制覇果たしている。 その後は秋シーズン備えて休養入り9月4歳牝馬限定戦のサファイヤステークス復帰。ここは1番人気に応え、グローバルダイナ以下を抑えて勝利し、続くオパールステークスをニホンピロウイナーの2着として牝馬三冠最終戦エリザベス女王杯臨んだ東京優駿結果から2400メートルの距離が不安視され、当日5番人気だったが、ロンググレイスに半馬身差の2着と好走した。続く阪神牝馬特別古馬前に4着と敗れ4歳シーズン終えた

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3-4歳 (1989年-1990年)

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レッツゴーターキン」の記事における「3-4歳 (1989年-1990年)」の解説

1989年12月競走馬としてデビュー未勝利脱出するのに4戦を要したが距離を伸ばす毎に好走していき、やがて500下条件を抜け出すと初重賞挑戦となった中日スポーツ賞4歳ステークスでは単勝11番人気ながら2着に入り波乱演出するその後嵐山ステークス始め好走する競走もあったが勝ち切れない競走が続く。

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3~4歳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/19 22:42 UTC 版)

トモスベビー」の記事における「3~4歳」の解説

3歳になったトモスベビーは、川崎の三潟隆五郎厩舎へと入厩デビュー迎える。11月17日大井での3歳特別戦を快勝し目標である全日本アラブ争覇へと臨んだが、こちらではギンパイハナ差で差し損ね2着だった。4歳になってからも春の特別では3着など勝ちきれないところが目立ったが、5月27日アラブチャレンジャー重賞初勝利そのまま6月8日大井ワード賞でも古馬一流どころを一蹴した下半期目標ひとつだった秋の特別では関西からこのレース目指し転入してきていタカトシ逃げ切り許し2着に終わったが、12月5日ホウセント記念では61キロ斤量ものともせず快勝。さらにこの年から設けられ大晦日アラブチャンピオン出走すると、タカトシらを下してこの年重賞4勝目挙げている。

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3・4歳(2007・2008年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 18:42 UTC 版)

ゼニヤッタ」の記事における「3・4歳(2007・2008年)」の解説

2007年11月22日ハリウッドパーク競馬場のメイドン(新馬未勝利馬戦)で初戦迎え2着に3馬身差を付けて勝利を挙げる。続くアローワンス一般戦)ではハリウッドパークのオールウェザートラックレコードを更新し2連勝古馬になって出走したエルエンシノステークス (G2) では最後方から直線だけで追い込み重賞初勝利挙げたその後出走予定していた2つ重賞競走回避し2008年4月アップルブロッサムハンデキャップG1競走初出走。初のダートでの競走加え前年エクリプス賞最優秀古牝馬ジンジャーパンチとの対戦となった。しかしここも後方からの追い込みで2着に4馬身半の差を付け快勝、G1初制覇飾ったその後もミレイディハンデキャップ (G2) 、ヴァニティーインビテーショナルハンデキャップ (G1) 、クレメント・L・ハーシュハンデキャップ (G2) と連勝クレメント・L・ハーシュハンデキャップの優勝タイム・1分4148は、デルマー競馬場オールウェザー8.5ハロンコースレコードであった。この次走のレディーズシークレットステークス (G1) では前年ブリーダーズカップ・ディスタフ2着馬・重賞3連勝中のヒステリカレディーに3馬身半差を付け無敗の8連勝達成本命馬としてアメリカ最強牝馬決定戦ブリーダーズカップ・レディースクラシック向かった当日チリからゴドルフィントレードされUAE二冠牝馬ココアビーチコーチングクラブアメリカンオークスなどG1競走3勝の実績を持つミュージックノート、前走スピンスターステークスを約8馬身差でレコード勝ちしたキャリアッジトレイルなどが顔を揃えシーズン2つのG1を制している前年度優勝馬ジンジャーパンチが6番人気という豪華メンバー集まったその中でゼニヤッタ前売りオッズで1.3倍という圧倒的な1番人気に推された。レースではスタート後手踏み道中最後方の位置取りとなる。しかし第3コーナー手前から位置押し上げるそのまま大外回って先行勢を一気差し切り、2着ココアビーチ1馬身半差を付けて優勝1988年パーソナルエンスン以来史上2頭目となる無敗でのレディースクラシック制覇果たし7戦全勝2008年シーズン終えた

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