東京優駿
(日本ダービー から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/21 02:23 UTC 版)
東京優駿(とうきょうゆうしゅん、英:Tōkyō Yūshun)は、日本中央競馬会(JRA)が東京競馬場で施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。副称の日本ダービー(にっぽんダービー、英:Japanese Derby)の名称でも知られる。競馬の祭典とされている[5]。日本国内では単に「ダービー」と言えばこのレースの事を指す。
注釈
- ^ a b ダービー開催をできる限り東京競馬場で開催できるようにするため、大規模な改築・改修工事が行われても、開催時期をずらすなどの処置を取っているためで、2002年から2003年の長期にわたる走路改修を伴う大規模改修工事は東京優駿の開催時期を避けて実施されている。また同様の工事が行われた1968年、並びに馬インフルエンザの全国的な伝播を理由に、1972年の開催も7月に変更されているが、この時も本来のこの時期の開催地・福島競馬場ではなく、東京競馬場で行われたため、開催地の変更には至っていない。なお、これは戦後、東京競馬場での開催に移された後の優駿牝馬も同様である。また同様にグレード制導入以前より開催地が一度も変わらずに行われているG1競走は当レースと有馬記念のみである。
- ^ 1961年(昭和36年)の主要大レースの1着賞金は東京優駿が700万円、天皇賞・有馬記念・菊花賞が500万円、皐月賞・優駿牝馬が400万円、桜花賞・中山大障害が300万円、宝塚記念が200万円、安田記念が150万円。その他の重賞は100万円前後であった。
- ^ 公式な名称には付されていないものの1932年(昭和7年)の設立当初より「日本ダービー」と呼ばれ、後述のラジオ中継でも終始「日本ダービー」と称されている。
- ^ 3歳馬限定の競走に限れば、国内最高額の賞金である。
- ^ 時期によって異なるが日本国外で種付され日本国内で出産された馬(持ち込み馬)、日本国外で生産された馬(外国産馬)、日本国外で調教された馬(外国馬)が制限の対象となってきた。
- ^ 国内グレードとしては引き続き最高格を維持した。
- ^ ただし年度により開始時期が6月中旬の函館あるいは札幌で先行的に始め、福島以西の本州の競馬場での開催は新潟・小倉が開幕する7月以後になってからであったり、6月中旬の福島以西のローカル開催時期に始めたりと時期は流動的だった時代もある。
- ^ 年間レースレーティングは、個々のレースにおける上位4頭のレーティングを年度末のランキング会議で決定した数値に置き換え算出した平均値。なお、牝馬限定競走以外のレースで、対象馬が牝馬の場合はアローワンスが加算される (日本の場合+4ポンド)。
- ^ 当初ダービーが予定された5月28日には中山競馬場で皐月賞が行われた。
- ^ 両者は0勝馬のことでもあるが、0勝馬のうち『競馬番組一般事項 I 定義 4.出走条件(3)収得賞金 イ 獲得賞金(二) - (六)』に該当する馬は、0勝馬でも未出走馬および未勝利馬とはならない[19]
- ^ 未出走馬および未勝利馬がダービーに出走したことはある。ただし、その馬は“地方競馬から移籍した中央競馬で未出走馬および未勝利馬”であり、1984年(昭和59年)のグレード制導入(トライアルの青葉賞がOP特別として創設された年)後以降では2頭が該当、1989年(平成元年)アオミキャップ[20][21]および1998年(平成10年)ミヤシロブルボン[22][23]である。なお、地方から中央への移籍馬は、『競馬番組一般事項 I 定義 4.出走条件(3)収得賞金 イ 獲得賞金(三)』に該当していれば、その馬は未出走馬および未勝利馬とはならない(前者は地方で6戦6勝後に移籍、その後毎日杯2着で獲得賞金を加算している[20][21]。後者は8戦6勝で中央に移籍、中央初出走がダービーだった[22][23])。
- ^ 青葉賞は創設(創設時はOP特別。1994年にGIIIに格上げ)から2009年までは3着以内(一時期2着以内の時期あり)、1996年に創設されたプリンシパルステークスも同年まで2着以内に優先出走権が与えられていたが[25]、未出走馬および未勝利馬は青葉賞2着以内、プリンシパルステークス1着と規定されている[25]。
- ^ 地方競馬で施行する競走では、JBCクラシック (JpnI)、東京大賞典 (GI)の1着賞金1億円が最高額である[28][29]。
- ^ 2020年、2021年はコロナ禍のため取り止め。
- ^ 安田は明治の競馬創設期より日本ダービー開催の構想を抱いており1923年(大正12年)の競馬法発布の頃から本競走の開催を企図したが、当時は国内の有力な競走馬生産牧場が宮内省の下総御料牧場と三菱財閥の小岩井農場に限られており他の民間の有力牧場が育つまで時期を待っていた。
- ^ 「新馬」と「古馬」の区別は馬齢ではなく出走経験の有無に拠っていた。
- ^ 当時の格付表記は、JRAの独自グレード。
- ^ 優勝時の年齢が20歳3ヶ月で、2014年時点では最年少の優勝騎手である[46]。
出典
- ^ a b “THE WORLD'S TOP 100 G1 RACES for 3yo's and upwards” (PDF). 日本中央競馬会. 2016年5月16日閲覧。
- ^ a b c d 中央競馬全重賞成績集【GI編】
- ^ a b c “中央競馬 重賞競走一覧(レース別・関東)” (PDF). 日本中央競馬会. p. 20 (2023年). 2023年9月11日閲覧。
- ^ a b c “令和5年第2回東京競馬番組 (第7日 - 第12日)” (PDF). 日本中央競馬会. 2023年9月11日閲覧。
- ^ “ダービー開催の東京競馬場が開門 直後に「開門ダッシュ」も 入場者数は最大7万人の見込み”. 日刊スポーツ (2022年5月29日). 2022年5月29日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m “歴史・コース:東京優駿 (日本ダービー) 今週の注目レース”. 日本中央競馬会. 2023年9月11日閲覧。
- ^ “平成27年度重賞競走一覧” (PDF). 日本中央競馬会. 2016年7月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月4日閲覧。
- ^ “平成28年度重賞競走一覧” (PDF). 日本中央競馬会. 2021年5月4日閲覧。
- ^ “平成29年度重賞競走一覧” (PDF). 日本中央競馬会. 2021年5月4日閲覧。
- ^ 東京優駿 2023年2月4日閲覧
- ^ 東京日日新聞昭和7年4月25日3面、読売新聞データベースヨミダス、朝日新聞データベース聞蔵IIなど
- ^ a b 『日本ダービー70年史』 38頁
- ^ “【日本ダービー予想】有名な格言「最も運のある馬が勝つのがダービー」という時代はついに終焉”. netkeiba. 2023年9月21日閲覧。
- ^ “INTERNATIONAL GRADING AND RACE PLANNING ADVISORY COMMITTEE "INTERNATIONAL CATALOGUING STANDARDS and INTERNATIONAL STATISTICS 2023"” (PDF). The Jockey Club Information Systems, Inc.. p. 90. 2023年9月11日閲覧。
- ^ “世界のトップ100 GIレースがIFHAから発表! JRA”. web.archive.org (2017年5月7日). 2020年4月16日閲覧。
- ^ “世界のトップ100 GⅠレースがIFHAから発表! JRA”. web.archive.org (2020年1月25日). 2020年4月16日閲覧。
- ^ “TOP 100 2019 G1 Races by Yearly Rating” (PDF). 日本中央競馬会. 2020年4月16日閲覧。
- ^ “競馬番組一般事項 I 定義 4.出走条件(5)未勝利競走” (PDF). 日本中央競馬会. p. 3 (2023年). 2023年9月11日閲覧。
- ^ “競馬番組一般事項 I 定義 4.出走条件(3)収得賞金 イ 獲得賞金(二)-(六)” (PDF). 日本中央競馬会. p. 2 (2023年). 2023年9月11日閲覧。
- ^ a b 芹沢邦雄 山本正範 編「蔵出し⑲ 1989年 平成元年」『蔵出しMagazine 丸ごと日本ダービー』 2001年6月5日号、発行人 渡辺秀茂、産業経済新聞社〈競馬エイト創刊30周年記念シリーズ〉、2001年5月7日、90 - 91頁。
- ^ a b 福本雅保 編「第56回 1989年 平成元年」『日本ダービー80年史』 2013年7月3日号、発行人 渡辺秀茂 編集長 鈴木学、産業経済新聞社〈Gallop臨時増刊〉、2013年6月3日、150頁。
- ^ a b 芹沢邦雄 山本正範 編「蔵出し28 1998年 平成12年」『蔵出しMagazine 丸ごと日本ダービー』 2001年6月5日号、発行人 渡辺秀茂、産業経済新聞社〈競馬エイト創刊30周年記念シリーズ〉、2001年5月7日、144 - 145頁。
- ^ a b 芹沢邦雄 山本正範 編「第65回 1989年 平成10年」『日本ダービー80年史』 2013年7月3日号、発行人 渡辺秀茂、産業経済新聞社〈Gallop臨時増刊〉、2013年6月3日、176 - 177頁。
- ^ a b c d e “競馬番組一般事項 V 出馬投票” (PDF). 日本中央競馬会. p. 18 (2023年). 2023年9月11日閲覧。
- ^ a b “平成21年度競馬番組一般事項 V 出馬投票 2.出走できる馬の決定方法(4)イ(一)(二)” (PDF). 日本中央競馬会. pp. 19 - 20 (2009年). 2009年9月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年2月23日閲覧。
- ^ a b “「地」が出走できるGI競走とそのステップ競走について【令和4年度】” (PDF). 日本中央競馬会. 2022年5月2日閲覧。
- ^ “令和5年度重賞競走一覧” (PDF). 日本中央競馬会. 2023年9月11日閲覧。
- ^ “2021年ダート交流重賞競走一覧”. 地方競馬全国協会. 2021年5月4日閲覧。
- ^ “JBC特設サイト2016【JBCについて】JBC実施要綱”. 地方競馬全国協会. 2016年5月16日閲覧。
- ^ “2015ワールドオールスタージョッキーズについて” (PDF). 日本中央競馬会. 2016年6月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月4日閲覧。
- ^ “2016ワールドオールスタージョッキーズについて” (PDF). 日本中央競馬会. 2021年5月4日閲覧。
- ^ “2017ワールドオールスタージョッキーズについて” (PDF). 日本中央競馬会. 2021年5月4日閲覧。
- ^ 『競馬百科』 82頁
- ^ a b 『競馬百科』 83頁
- ^ 『日本ダービー70年史』 21頁
- ^ 『日本ダービー70年史』 29頁
- ^ 『日本ダービー70年史』 34頁
- ^ 『日本ダービー70年史』 35頁
- ^ 『日本ダービー70年史』 36頁
- ^ 競馬歴史新聞編纂委員会 編『新版競馬歴史新聞』日本文芸社、2004年4月25日、261頁。ISBN 4-537-25205-7。
- ^ “第3回 東京競馬成績集計表” (PDF). 日本中央競馬会. pp. 1562-1563 (2007年). 2016年5月16日閲覧。 (索引番号: 14046)
- ^ 山本武志 (2017年5月28日). “【あの時・ウオッカのダービー制覇】(1)牝馬64年ぶりの栄冠”. スポーツ報知 2018年3月5日閲覧。
- ^ a b “第3回 東京競馬成績集計表” (PDF). 日本中央競馬会. pp. 1582-1583 (2010年). 2016年5月16日閲覧。 (索引番号: 14046)
- ^ “JRAニュース:皇太子殿下の東京競馬場への行啓について”. 日本中央競馬会. 2014年5月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年5月16日閲覧。
- ^ “4月25日(土曜)から5月31日(日曜)までの中央競馬の開催等について”. 日本中央競馬会 (2020年4月23日). 2021年5月4日閲覧。
- ^ 東奥日報 (2015年5月20日付夕刊1面、特集記事『トピックス東京発』)
- ^ 55430円
- ^ https://db.netkeiba.com/race/195605040610/
- ^ “中央競馬レコードタイム表 GIレース”. 日本中央競馬会. 2021年5月4日閲覧。
- ^ “【日本ダービー結果】ドウデュースがV!武豊騎手は前人未到6度目のダービー制覇!”. netkeiba.com. 2022年5月29日閲覧。
- ^ グレード制導入後はロジユニヴァース(第76回、2分33秒7)
- ^ 『日本ダービー70年史』 70頁
日本ダービー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:30 UTC 版)
日本ダービーの前にもダービートライアル・プリンシパルステークス出走を予定していたが、調教中に未勝利馬に蹴られて外傷を負ったため、同レースを回避し、ダービーへ直行することになった。皐月賞の優先出走権があるにもかかわらず再び皐月賞トライアル競走に出走し、さらに皐月賞勝利後はダービートライアル競走に出走させようとした中尾銑治調教師によるローテーションは、当時「(レースに)使いすぎ」と言われた。中尾は「使わないと馬が太くなりすぎる」と説明したが、評論家の大川慶次郎は「皐月賞を勝つほどの馬なら、自分で体を作るはず」と、安易にレースを使おうとする調教師の姿勢を批判した。 主戦騎手の大西も引退後に発表した著書にてこのローテーションには反対で、プリンシパルステークスへの出走を正式決定した場合は身体を張ってでも阻止するつもりだったことを明らかにしており、結果的に出走回避となった時は安堵したという。大西によれば、このようにハードなローテーションを課した背景には、調教助手(当時)が昔気質で、ちょっとでも馬体が太くなれば完璧なまでに調整しようとするために調子の維持や疲労回復といった面を重視せず、さらには調教師の中尾もそれに流されてしまっていたことを明らかにしている。 出走前の併せ馬調教では、当時“芦毛の怪物”と言われ、また『調教横綱』としても知られていたスピードワールドに先着したことが話題になる。それを見た大川慶次郎は「この馬はやはり強い」と思い直し、ダービーの予想で印を打った。大川はかねてから「皐月賞はフロックだった」との評価に対し、「GIにフロックがあるのだろうか?」との疑問を抱いており、この併せ馬を目の当たりにして「やはりGIにフロックはない」と確信したという。 それでも、ダービーでは単勝6番人気(発走直前に競走除外されたシルクライトニングの方が上位人気だったため、実質は7番人気)と相変わらず低評価であった。枠番は皐月賞と同じ18番で、大外枠を希望していた大西直宏は自身が枠番抽選で大外18番を引いたとき、勝利を確信したという。 皐月賞以降、大西は「逃げ宣言」を繰り返していた。もし仮に、同じく出走している逃げ馬のサイレンススズカが逃げていれば、同馬がハイペースで飛ばし、これに巻き込まれてしまうことが濃厚だったが、「もし先手を奪いに行っても、サニーブライアンは絶対に退かない。それでは共倒れになると思った。」とレース後にサイレンススズカに騎乗していた上村洋行が答えたように、他馬が逃げを控えたことで、レースではスタートから先頭に立ち、ややスローペースの単騎逃げの体勢を作ることに成功した。この展開に『Grade-A』で後付実況を担当していた杉本清は「おのおの方、油断めさるな、何といっても皐月賞馬だ」と実況している。そして、東京競馬場の長い直線でスパートし、スタートから一度も先頭を譲ることなく2着のシルクジャスティスら後方から追い込んで来た集団を1馬身抑えてクラシック二冠目も勝利した。ゴール入線直前、フジテレビのテレビ中継で三宅正治は「これはもう、フロックでも、なんでもない!二冠達成!」と叫んだ。 レース後のインタビューでは「皐月賞で勝った割に評価が今一つ(7番人気)だったのはどう感じているか」との質問に対し、大西は「評価はどうでもよかった。1番人気はいらないから1着だけ欲しい、と思っていました」と語っており、この発言はサニーブライアン及び大西を象徴する言葉として現在でも知られる。また、「今日の府中の直線は(皐月賞と比べて)どうだったか」という質問に対し、大西は「(308メートルしかない)中山よりも(525.9メートルの府中の方が)短く感じた」と答え、ダービーでのサニーブライアンの強さを強調した。 東京競馬場でダービーを観戦していた生産者の村下夫妻は、1着でゴールした瞬間嬉しさのあまり2人で抱き合って喜んだ。周りには大勢の人間がいたが、そんなことは全く気にならなかったという。サニーブライアンが先頭で直線に入った瞬間から夫妻は、「ほれっ、サニー、もう一息だ!ほれっ!ほれっ!!」と叫び続けていた。 馬主の宮崎守保は、サニーブライアンがダービーを勝利したとき、サニーブライアン1頭しか現役競走馬を所有していなかった。このような例でダービーを勝利したのはJRA史上初のことであり、ほかの馬主たちからは「奇跡」と言われた。 大西騎手は勝利騎手インタビューで再度、菊花賞でも逃げて三冠を目指すことを宣言した。
※この「日本ダービー」の解説は、「サニーブライアン」の解説の一部です。
「日本ダービー」を含む「サニーブライアン」の記事については、「サニーブライアン」の概要を参照ください。
日本ダービー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 03:28 UTC 版)
クラシック第2戦の日本ダービーは予定通り5月26日に行われた。コーネルランサーは2番人気に支持された。 道中は、コーネルランサーは終始5番手をキープ。直線で先頭に躍り出ると、内から迫ってきたキタノカチドキの追撃を抑え切り、外から追ってきたインターグッドに一度交わされながらも差し返して、ハナ差で優勝した。勝ちタイムの2分27秒4は、当時のダービーのレコードタイムだった。 なお、騎乗していた中島の父も日本ダービーを制しており、史上初めて父子で日本ダービージョッキーとなる快挙を成し遂げた。
※この「日本ダービー」の解説は、「コーネルランサー」の解説の一部です。
「日本ダービー」を含む「コーネルランサー」の記事については、「コーネルランサー」の概要を参照ください。
日本ダービー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 17:42 UTC 版)
第60回 東京優駿(東京・芝2400m)着順馬番競走馬名騎手タイム着差単勝オッズ人気1着 10 ウイニングチケット 柴田政人 2:25.5 3.6 1 2着 7 ビワハヤヒデ 岡部幸雄 2:25.6 1/2 3.9 2 3着 1 ナリタタイシン 武豊 2:25.8 1.1/4 4.0 3 天候:曇、馬場状態:良 (出典:)クラシック第2戦・日本ダービーでは、ウイニングチケットが前走に続き1番人気、続いてビワハヤヒデ、ナリタタイシンと、前走・皐月賞と同じ人気順に収まったが、単勝オッズはそれぞれ3.6倍、3.9倍、4.0倍と拮抗し「三強対決」の様相を呈した。 ビワハヤヒデとウイニングチケットは中団、ナリタタイシンが最後方につけた。最終コーナーでビワハヤヒデは荒れた内ラチを避け外を回したが、ウイニングチケットは他馬が避けた内側の経済コースを通り一気に先頭に立った。最終直線でビワハヤヒデは激しく食い下がり、半馬身差まで差を詰めるが届かず2着。外から追い込んだナリタタイシンが3着に入り、人気順通りの着順に収まった。
※この「日本ダービー」の解説は、「BNW」の解説の一部です。
「日本ダービー」を含む「BNW」の記事については、「BNW」の概要を参照ください。
日本ダービー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 16:44 UTC 版)
第53回日本ダービーは23頭立て、晴れの良馬場という絶好のコンディションで行われた。 社台グループの総裁・吉田善哉は「ダイナガリバーでダービーを獲る」と高らかに宣言したのにも関わらず、皐月賞の大敗が響き、NHK杯を快勝した関西の秘密兵器ラグビーボール、皐月賞馬ダイナコスモスに次いで3番人気に甘んじた。 1000mを62秒5とスローで流れたこのレースで道中前めにつけ、直線で先頭に立つと、追ってきたグランパズドリームを半馬身抑えて優勝した。騎乗した増沢はこの時48歳7か月5日であり、史上最年長のダービージョッキーとなった。
※この「日本ダービー」の解説は、「ダイナガリバー」の解説の一部です。
「日本ダービー」を含む「ダイナガリバー」の記事については、「ダイナガリバー」の概要を参照ください。
日本ダービー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 13:02 UTC 版)
同年6月7日に東京競馬場で行われた東京優駿(日本ダービー)では直線追い通し、5馬身差で勝利した。武にとってこれが自身初のダービー制覇となった。武は興奮のあまりムチを落としており、杉本清によるとレース後武に「ムチ、どうしたの?」と聞くと武は「その辺に忘れました」と答えたという。
※この「日本ダービー」の解説は、「スペシャルウィーク」の解説の一部です。
「日本ダービー」を含む「スペシャルウィーク」の記事については、「スペシャルウィーク」の概要を参照ください。
日本ダービー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 13:50 UTC 版)
無敗での三冠達成が期待された日本ダービーだったが、厩務員ストによる3週間の日程繰り下げがキタノカチドキに少なからず影響を及ぼしていた。特に最初は3日間馬房に閉じ込められる事態が生じ、その後は毎週のようにレースが実施されることを前提に強い追い切りをかけたことが皐月賞後に疲れが出てくる結果となった。 ダービー直前の最終追い切りでは内へささり、キタノカチドキの主戦騎手だった武邦彦が「不安を通り越して、恐怖を感じた」と発言するほど、調子が不安視されていた。また単枠指定で7枠19番という外枠からの発走になり、その心理的な不安も加わって、レース前にキタノカチドキに不利な条件が重なることとなった。 そして、5月26日の日本ダービー当日。スタートしてすぐにキタノカチドキは19番枠から果敢に先行したが、好位につけることができずに10番手で第1コーナーを回った。レースはニシキエース、ランドグレース、エリモマーチスが早いペースで逃げて、この3頭がバテると急にスローな展開となり、第3コーナーではダンゴ状態になるというダービーでは珍しい展開になった。キタノカチドキはずっと馬群の中にいて、第4コーナーで先行集団に追いつき、いつでも抜け出せる位置につけた。だが、余分なスタミナを使ってしまったのか、最後の直線で先に行くコーネルランサーとインターグッドの間を抜け出そうとしたところで内へささり、立て直そうとすると外へもたれるなどしてヨレて真っ直ぐ追える状態ではなく、優勝したコーネルランサーから1馬身差の3着に敗れ、初黒星を喫した。
※この「日本ダービー」の解説は、「キタノカチドキ」の解説の一部です。
「日本ダービー」を含む「キタノカチドキ」の記事については、「キタノカチドキ」の概要を参照ください。
「日本ダービー」の例文・使い方・用例・文例
- 日本ダービーのページへのリンク