岡部幸雄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/09 08:00 UTC 版)
岡部 幸雄(おかべ ゆきお、1948年10月31日 - )は、日本の元騎手。群馬県新田郡強戸村(現:太田市)出身。日本中央競馬会(JRA)に所属し1967年から2005年にかけて現役生活を送った。
注釈
- ^ 1987年、1989年〜1994年、1996年〜1997年、2000年。
- ^ 最終的な記録は2943勝(うち重賞は165勝で、そのうちGI競走が32勝、グレード制導入前の八大競走が4勝)。なお、最多勝記録は岡部が引退した後の2007年7月に武豊によって更新された。
- ^ 岡部は騎手として成功した後も「誰にも負けない特技」として靴磨きを挙げた[5]。
- ^ 一例として岡部は若手時代に先輩から指導された、騎乗した日の夜に布団の中でレースを回顧する習慣が38年間の騎手生活を通して役に立ったと回顧している[6]。
- ^ 西ドイツ、アメリカ、イギリス、ドバイ、マカオ、アイルランド、ブラジル、フランス、トルコ、香港、ニュージーランド、カナダ[12]。
- ^ アメリカ5勝、ドイツ2勝、イギリス、ドバイ、マカオ、アイルランド、ブラジル、フランス各1勝[12]。
- ^ 日本よりも鐙が短く、つま先で鐙に足をかけるため、重心が前方にある。また、手綱を短めに持つ。
- ^ 具体例として硬く(馬場の含水量が少なく)なりがちな日本の馬場の改善[19]、耳覆いのついたメンコを使用することへの苦言[20]、ゲートボーイ(発馬機内で馬に付き添う係員)の導入[21]、エージェント制度の確立[22]、ハンデキャップ競走において強い馬に重い負担重量を課すのではなく弱い馬に軽い負担重量を課すこと[23]。
- ^ 日本語に訳すると「肩肘を張らずに気楽にいこう」という意味[11]。
- ^ 岡部はこの言葉について「ひとことで勝負師の心構えの全てを物語っていると思います」と語っている[11]。騎手時代の岡部はこの言葉を思い出し、潜在的な恐怖心と馬に乗る楽しさとのバランスを保った[25]。シンボリルドルフに騎乗していた時にはレース前にルドルフの体を撫でながら、心の中でつぶやくのではなく実際に声に出して「テイク・イット・イージー。気楽にいこう」と声をかけていた[24]。
- ^ 岡部は日本の競馬界には専門分野における技能が優れていれば社会人として常識が欠けていてもいいという風潮があると分析している。
- ^ 管理調教師の野平祐二によると、デビューするにあたっては岡部か柴田政人のどちらかにしたいと考えていたが、デビュー当日に柴田が北海道に遠征していたため、この日新潟に行くと言っていた岡部に騎乗を依頼したのだという[27]。野平はデビュー前に初めて騎乗した際に「この馬は物が違う。日本を超えている」と直感する程衝撃を受け[28]、レース前には岡部に対しても「念のために、これだけは言っておくよ。ほかの三歳馬に乗ってみて、シンボリルドルフより強い馬がいたら遠慮なく乗り換えてもらっていいよ」と伝えていた[27]。
- ^ 『週刊Gallop』のアンケートによる[31]。
- ^ ディープインパクトにはスタートの拙劣さや気性面に問題があると指摘している。
- ^ なお、1946年に渡辺正人が日本初のフリー騎手となって以降、日本にフリー騎手の概念は存在した(渡辺以外の例を挙げると、1983年10月に小島太が、1984年2月に武邦彦がフリー騎手となっている)が、特定の厩舎や馬主に拘束されないという意味でのフリー騎手は岡部が初めてであった(例えば前述の小島太は、さくらコマースの名義で活動していた馬主の全演植と騎乗契約を結んでいた[33])。
- ^ 一例として岡部は、1983年の第43回桜花賞で鈴木厩舎が管理していたサーペンスールへの騎乗を優先させたためにダイナカールに騎乗することができなかったことを挙げている[34]。続くオークスではサーペンスールは距離適性がないという理由で出走しなかったためダイナカールに騎乗できたが、岡部はサーペンスールも出走していたらオークスまでも逃していたと述べている[34]。
- ^ なお、フリー騎手となった後の岡部に中央競馬の重賞優勝馬への騎乗を依頼した調教師は、藤沢和雄(34勝)、伊藤雄二(10勝)、松山康久(8勝)、矢野進(8勝)、野平祐二(6勝)、浜田光正(6勝)、田中清隆(4勝)、中野隆良(3勝)、中村好夫(3勝)、沢峰次(2勝)、田中和夫(2勝)、奥平真治(2勝)、清水利章(2勝)、荻野光男(2勝)、松元省一(2勝)、小島太(2勝)、山内研二(2勝)、後藤由之(2勝)、内藤一雄、佐藤林次郎、高橋祥泰 、瀬戸口勉、武邦彦、南井克巳、柄崎義信、畠山重則、湯浅三郎、伊藤正徳、小西一男、国枝栄、工藤嘉見、新関力、勢司和浩(各1勝)(カッコ内は岡部騎乗による重賞勝利数)。
- ^ 渡瀬夏彦は、岡部は意識を失った時に「亡くなった彼の叔父が三途の川の向こうで呼んでいる夢を見た」と述べている[38]。
- ^ 1991年は全国リーディングジョッキー。
- ^ 1988年から1998年まで毎年優勝。
- ^ なお、美浦トレーニングセンター所属で岡部に(1984年のグレード制導入前の)八大競走および(グレード制導入後の)GI競走優勝馬の騎乗を依頼した調教師は、成宮明光(カネヒムロ)・中野隆良(グリーングラス・クシロキング)・高橋英夫(ダイナカール)・野平祐二(シンボリルドルフ)・沢峰次(ダイナコスモス)・奥平真治(レオダーバン)・藤沢和雄(シンコウラブリイ・バブルガムフェロー・シンコウキング・タイキブリザード・タイキシャトル・シンボリクリスエス)・松山康久(ジェニュイン)・田中清隆(シンコウウインディ・グルメフロンティア)・小島太(イーグルカフェ)。
- ^ なお、栗東トレーニングセンター所属で岡部に(1984年のグレード制導入前の)八大競走および(グレード制導入後の)GI競走優勝馬の騎乗を依頼した調教師は、浅見国一(ケイキロク)・瀬戸口勉(オグリキャップ)・武邦彦(バンブーメモリー)・荻野光男(ヤエノムテキ)・松元省一(トウカイテイオー)・浜田光正(ビワハヤヒデ)・南井克巳(ウイングアロー)。
- ^ 岡部自身も短距離戦よりもミスを取り返せる可能性が高く、精神的なゆとりが生まれる長距離戦を好んだ[44]。
- ^ 1998年には、前述の徒弟制度が崩壊したことが若手騎手の育成に与える弊害について、日本騎手クラブ会長として憂慮を表明している[45]。
- ^ 福田務(岡部がリハビリテーションやトレーニングのために通っていた船橋整形外科のトレーナー)による評価[46]。
- ^ 引退時の年齢は56歳4か月10日。なお、岡部が更新する前の記録保持者は増沢末夫(54歳4か月3日)。
- ^ 天皇賞(秋)は岡部が優勝した当時はGI、2007年以降はJpnI。
- ^ 2023年4月2日に武豊が54歳0ヶ月19日で大阪杯を制しこの記録は更新された。
- ^ 岡部曰く、膝の痛みは1988年に落馬事故を経験して以降感じるようになった[46]。
- ^ 岡部によると、左膝の半月板のところの軟骨が「トゲトゲの、割り箸みたいな状態になっていて、それがチクチクと神経に触って痛かったわけです」と述べている[50]。
- ^ なお、一度リハビリを終えて調教に復帰後の2003年11月にゲート練習中に転倒して右膝を骨折し[51]、復帰が遅れるアクシデントがあった。
- ^ 岡部が騎手デビュー後丸刈りとなったのは、1984年2月18日の東京競馬第8競走中に向こう正面で杉浦宏昭の騎乗馬が斜行したことに激高して杉浦を鞭で殴りつけ、そのことへの反省から頭を丸めて以来であり[52]、「ゼロからのスタート」という意味が込められていた[53]。
- ^ 引退会見では「自分の体が動かず、思っていることができない。これでは勝てる馬を勝たせることができず、馬に迷惑がかかる」と語った[54]。
- ^ 岡部本人は3月10日付で騎手免許を返上していることもあり騎乗せず、優勝馬の関係者らに対する賞品のプレゼンターとして表彰式に出席した。なお、特定騎手の業績を称えた競走は、地方競馬では佐々木竹見騎手に関するものが開催されていたが、中央競馬においては初めてのことであった。
- ^ 出場にあたっては、美浦トレーニングセンターで競走馬の調教時間外にトレーニングを行った[61]。
- ^ 保田隆芳、野平祐二、加賀武見、郷原洋行、武邦彦、増沢末夫に続く史上7人目の記録。
- ^ 従来の最多勝記録は1978年に福永洋一が記録した131勝。なお、1996年に武豊によって更新された。
- ^ 従来の記録は河内洋の685回。なお、この記録は1989年に武豊によって更新された。
- ^ 増沢末夫に続く史上2人目の記録。当時の中央競馬最速記録(1995年5月6日に河内洋が更新)。
- ^ その週における土曜日と日曜日、2日間の開催
- ^ 従来の記録は田原成貴、安田隆行による8勝。
- ^ 従来の記録は増沢末夫の12780回。
- ^ 増沢末夫に続く史上2人目の記録。当時の中央競馬最速記録(2001年7月29日に河内洋が更新)。
- ^ 従来の記録は増沢末夫の2016勝。
- ^ 国営競馬・中央競馬通算での記録
- ^ 従来の記録は保田隆芳の23年連続。
- ^ なお、その後岡部は2002年まで毎年重賞競走に勝利し、記録を28年に更新した。[66]
- ^ 従来の記録は増沢末夫の49歳2か月1日。
- ^ なお、岡部はその後2002年10月27日に天皇賞(秋)を優勝し、自身が持つ記録を53歳11か月に更新した
- ^ 従来の記録は増沢末夫の54歳3か月26日。
- ^ なお、岡部はその後2005年1月23日に中山競馬場第8競走で優勝し、自身の持つ記録を56歳2か月23日まで更新した。
- ^ この記録は2022年11月5日に柴田善臣に破られている(56歳3か月7日)。
- ^ 3年目までは障害競走にも騎乗していたが重賞優勝はない。1969年には中山大障害(春)に有力馬バスターでの出場を予定していたがバスター事件が発生して同馬は出走取消したため、出場することができなかった)。
- ^ 2007年7月21日に武豊によって破られるまで史上最多。
- ^ 2943勝のうち重賞は165勝(そのうちGI競走が32勝、グレード制導入前の八大競走が4勝)。
- ^ 中央競馬における最多騎乗記録。
- ^ 岡部はデビューからこの年まで障害競走にも騎乗していた[10]。
- ^ ほかにダイヤモンドS、七夕賞、福島大賞典。
- ^ ほかに京成杯、スプリングS。
- ^ ほかにアラブ王冠(春・秋)。
- ^ ほかにNZT4歳S、新潟記念、七夕賞、牝馬東京タイムズ杯。
- ^ 岡部によると東京優駿でシンボリルドルフは自分でレースを作り、そのことで岡部は理想の仕掛けのタイミングを学んだ[71]。菊花賞について岡部は「鼻歌を歌いながら競馬をしていた」といい、2着との着差が3/4馬身とそれまでで最小の着差だったことについて話が及ぶと、「何馬身も話すことはないと、最初から教え込んでいますから」とルドルフの賢さを称賛するコメントを残した[11]。
- ^ ほかにクイーンC、共同通信杯4歳S、弥生賞、セントライト記念。
- ^ ほかに日経賞。
- ^ 岡部はこのときの騎乗について、スタミナ勝負になることを回避することで中距離のレースを得意としたクシロキングを長距離戦に適応させたと述べている[72]。
- ^ ほかに金杯(東)、中山記念、ラジオたんぱ賞。
- ^ 当時の中央競馬年間最多勝記録。
- ^ ほかにダイヤモンドS、目黒記念、クリスタルC、京王杯スプリングC、ステイヤーズS。
- ^ ほかにダイヤモンドS、目黒記念、新潟3歳S、京王杯オータムH、ステイヤーズS。
- ^ レース前にはお手馬だったメジロアルダンではなくヤエノムテキへの騎乗を選んだことを疑問視する向きもあり、岡部は「この一戦だけはなんとしても」という決意で同レースに臨んだ[73]。
- ^ ほかにダイヤモンドS、クイーンC、NZT4歳S、鳴尾記念。
- ^ レオダーバンは興奮しやすい気性の持ち主で3000mの菊花賞では不安視されたが、岡部はレース中に落ち着けることに成功した[74]。
- ^ ほかにステイヤーズS、テレビ東京賞3歳牝馬S。
- ^ トウカイテイオーはシンボリルドルフの産駒で、岡部騎乗で同レース親子制覇を達成。このレースは競馬ファンによって、岡部に関する「思い出のレース」第1位に選ばれた(2005年3月12、13日に中山競馬場で行われたアンケートによる[75]。岡部はこの結果について「ルドルフが1位かと思ったらトウカイテイオーなんで意外でした。トウカイテイオーはルドルフのよさをそっくり受け継いでいるような乗り味の馬で、ジャパンカップ親子制覇はうれしかった」とコメントした[75]。
- ^ ほかに報知杯4歳牝馬特別、大阪杯、NZT4歳S、クイーンS、ステイヤーズS。
- ^ ほかにダイヤモンドS、目黒記念、サンスポ賞4歳牝馬特別、札幌3歳S、神戸新聞杯、毎日王冠、スワンS、根岸S。
- ^ ほかに京都記念、日経賞、青葉賞、エプソムカップ、タマツバキ記念、札幌3歳S、オールカマー、根岸S、ステイヤーズS、フェアリーS。
- ^ ほかにダイヤモンドS、ラジオたんぱ賞、サファイヤS。
- ^ ほかにスプリングS、大阪杯、ダービー卿チャレンジトロフィー、ユニコーンS。
- ^ 岡部によるとシンコウウインディには噛みつき癖があり、能力を発揮できないまま終わるレースが多かった。レース後には2着のストーンステッパーが馬体を合わせてきたため、「横の馬が寄ってきた時は心配したけど(笑い)、よく辛抱してくれた」と語った[76]。
- ^ ほかに中山金杯、東京新聞杯、京王杯スプリングC、武蔵野S、エプソムC、鳴尾記念、京王杯オータムH、ユニコーンS、毎日王冠、府中牝馬S、アルゼンチン共和国杯、ラジオたんぱ杯3歳S。
- ^ ほかに中山金杯、ダービー卿チャレンジトロフィー、京王杯スプリングC、ステイヤーズS。
- ^ ほかにAJCC、共同通信杯4歳S、京王杯オータムH、アルゼンチン共和国杯。
- ^ 中山競馬場での優勝。なお、岡部はこれ以前にも3つの競馬場(京都競馬場・1978年春、東京競馬場・1990年秋、阪神競馬場・1994年春)で天皇賞を優勝しており、4つの競馬場で同競走を優勝するという記録を達成した。
- ^ ほかにクイーンC、中山記念、フラワーC、関屋記念、神戸新聞杯、毎日王冠、アルゼンチン共和国杯、ステイヤーズS。
- ^ なお、この年重賞を勝ったことで自身が持つ中央競馬の連続年重賞優勝記録を28年に更新した。
- ^ 岡部は実例として、後述のマティリアルのほか、グリンモリーの名を挙げている。グリンモリーの新馬戦に騎乗し勝利した岡部は高い素質を感じ、脚部不安を抱えていた同馬の将来のために休養を取らせることを進言したが聞き入れられず、同馬は重賞の新潟3歳ステークスを優勝したものの故障を発症し、その後重賞を優勝することはなかった[78]。
- ^ スプリングステークスを優勝後、岡部は休養をとらせるべきだと主張したが馬主サイドはクラシック出走にこだわり、その後約2年半にわたり未勝利が続いた。
- ^ 桜花賞での成績は1995年、2002年の3着が最高で、勝つことができなかった。このことについて岡部は引退後「縁が薄かった」としている[34]。なお、人気馬騎乗での挑戦回数は1番人気馬と2番人気馬での騎乗が共に2回ずつであった。
- ^ 藤沢は「無事なら馬はいつか結果を出す」という考えの下、馬に無理をさせないことをモットーとしている。具体例として1995年の優駿牝馬トライアルの4歳牝馬特別を優勝した管理馬サイレントハピネスを、同馬の体調が良くなかったことと肉体的・精神的に馬が完成していない時期に過酷なレースをさせたくないとの理由から優駿牝馬に出走させなかった。また管理馬スティンガーについて、厳寒期に調教を行いたくないという理由から、トライアル競走に出走させずに桜花賞に出走させた[83]。
- ^ 岡部は藤沢の管理馬に1111回騎乗し、295勝(うち重賞35勝、そのうちGI競走は8勝)を挙げ、勝率は0.266、連帯率は0.424を記録した[76]。
- ^ ペリエはとくに中山競馬場での乗り方を挙げている。藤沢和雄は2002年の中山で開催された天皇賞(秋)をシンボリクリスエスで臨むにあたり、この時ペリエも来日していたが「中山の2000メートルはオリビエより巧い」として岡部に騎乗を依頼し、レースも勝利した[12]。
出典
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岡部幸雄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 01:06 UTC 版)
岡部幸雄とは毎年のようにリーディングを競い合い、しばしば互いが比較の対象となった。「静の岡部、動の柴田」と評され、騎乗については岡部は「華麗・魔術」、柴田は「剛腕・剛毅」とも対比された。岡部自身も自著の中で「私の場合、ライバルとして一番に挙げられるのは、やはり同期の柴田政人だろう。『宿敵』というよりは、『好敵手』だったといえる関係である」と記している。また、岡部は1984年に厩舎所属からフリーに転身し、騎乗馬確保の折衝のため、いち早くエージェント(代理人)を採用するなど騎乗馬の選択に一切の妥協を挿まなかった。作家の後藤正治は、こうした岡部の考え方を「アメリカ的合理主義」、柴田を「日本的一門主義」と対比している。岡部は一度柴田にもフリーになることを勧めているが、柴田は「岡部の気持ちもやり方も分かる」とした上でこれを退けており、また岡部も柴田が断ることを予期した上で訊いたという。 私的には親しい友人の1人であり、自身の引退に際しては「生き方は違っても、同じことを目指していたという意味で、こんな力強い存在はなかった。周囲が言うような、ライバル意識なんか俺たちにはないんだよ。岡部がいつまでもレースに出て勝つことが、俺や、同期たちの生きる喜びに繋がっている」と語っている。2005年の岡部の引退に際してはセレモニーに出席し、伊藤正徳と共に同期生代表として花束を贈呈した。2014年には岡部と共に調教師・騎手顕彰者制度の騎手部門で同時選出された。
※この「岡部幸雄」の解説は、「柴田政人」の解説の一部です。
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岡部幸雄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 18:10 UTC 版)
1988年の有馬記念で佐橋の意向から騎乗依頼を受け「一回だけ」という条件付きで依頼を引き受けた。後に佐橋からオグリキャップを購入した近藤俊典が騎乗依頼を出したが、了解を得ることはできなかった。その一因は、クリーンなイメージを大切にする岡部が佐橋の脱税問題が取りざたされたオグリキャップへの騎乗を嫌ったことにあるとされている。調教師の高松邦男は、オグリキャップに騎乗した騎手の中で岡部がもっとも馬にフィットした乗り方をしたと評した。岡部は有馬記念前に騎乗依頼を受けた際、「西(栗東)の馬はよくわからないから」と一度は婉曲に断っていたが、オグリキャップが引退して一年余り経ったときに、「僕はオグリキャップには乗ってみたかったんですよ。ひと口に強い馬といってもいろいろ癖がありますから。どんな馬か知りたかったですしね」とオグリキャップへの騎乗に興味を持っていたことを明かしている。
※この「岡部幸雄」の解説は、「オグリキャップ」の解説の一部です。
「岡部幸雄」を含む「オグリキャップ」の記事については、「オグリキャップ」の概要を参照ください。
岡部幸雄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:15 UTC 版)
古馬としての初戦・産経大阪杯からジャパンカップまでの4戦に騎乗。岡部は父・シンボリルドルフの全16戦に騎乗したが、その父との比較でテイオーを語った。初めて跨った際には「背中、フットワークは父そっくり、落ち着き、賢さは父以上」と評したが、最終的には「父親のレベルに達する要素はいくらでも持っていた馬ですが、結局そうはなれなかった」と総評している。一方で、「怪我なく順調に行って、普通にレースを重ねていたら、もっと違う仕事をしていたと思う。大変な馬になっていたと思うよ。そういう意味での残念な気持ちは残りますね」とも語り、度重なる故障を惜しんだ。最後の有馬記念でビワハヤヒデを選択した際には「テイオーは終わったと見切りを付けた」という見方もあったが、競走後には、悔しくないかとの問いに対し「他の馬に負けるくらいならテイオーに負けた方がいい」と語ったとも伝えられている。翌年にこの有馬記念を回顧した際には、最後の直線でテイオーが迫ってきたことがわかった時に『おっ、テイオーが来た。オーッ、こいつ凄い、蘇った』と瞬間的に思ったといい、「自分が乗っていた馬でもあるし嬉しかったけれど、関係者の人たちの頑張りが報われてよかったと感じました」と語っている。後年トウカイテイオーとビワハヤヒデとの上下について、「コンスタントに走れるのはとにかく強み」としてビワハヤヒデを上位に挙げたものの、「テイオーは確かに強いときはビワ以上のものを感じた」と述べている。ジャパンカップは岡部の2005年の引退に際して、同年3月12日・13日に中山競馬場で当日来場したファンに向けて実施された投票企画「ファンが選んだ想い出のレース」で第1位に選ばれ、この結果を伝えられた岡部は「ルドルフが1位かと思ったらトウカイテイオーなんで意外でした」としつつ、「ジャパンカップ親子制覇は嬉しかった」と語った。
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