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オグリキャップ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/06/03 07:04 UTC 版)
オグリキャップ(Oguri Cap、1985年3月27日 - 2010年7月3日)は日本の競走馬。「平成三強」の一頭。第二次競馬ブーム期に、ハイセイコーに比肩するとも評される[1]高い人気を得た。
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注釈
- ^ a b JRA賞の部門名はいずれも当時の名称。
- ^ ホワイトナルビーを繋養していた稲葉牧場については小栗に賛同して鷲見を説得した(渡瀬1992 pp.60-61)とも、そもそもダンシングキャップとの交配を提案したのは稲葉牧場だった(光栄出版部(編)1996 pp.101)とも、一旦は交配を躊躇したものの小栗に押し切られる形で同意した(山本1992 pp.61-65)ともされる
- ^ 笠松競馬場の調教師後藤義亮の妻が笠松競馬の馬主会の支援を受けて運営していた育成牧場。現在は閉鎖されている。
- ^ 地方競馬では、1990年まで馬名について促音・拗音の使用が認められていなかったため。なお、発音は「オグリキャップ」である。
- ^ 理由は三浦が人間関係に苦しんで厩務員を辞めたため(渡瀬1992 pp.96-97)。
- ^ 蹄叉腐乱はひづめの手入れを怠ったことが原因で発症する疾病であるため、川瀬は三浦を気遣い、この事実をオグリキャップの引退からおよそ15年後の2005年に出版された『#東邦出版(編)2005いま、再びオグリキャップ』において初めて明らかにした。(東邦出版(編)2005 p.71)。
- ^ 走破タイムは中央競馬の古馬500万下に相当するものであった。(『光栄出版部(編)1996 p.108)
- ^ 小栗は1994年に行われた杉本清との対談で、ダンシングキャップ産駒の特徴である発馬の悪さを理由に1200万円での売却を検討したが、交渉がまとまらなかったと述べている[20]。
- ^ 実際に小栗はオグリキャップが優勝したレースの記念撮影に加わっている(渡瀬1992 p.404)
- ^ ただし鷲見は中央移籍後のオグリキャップのレースは積極的に観戦しており、ペガサスステークスを除きすべて競馬場で観戦した(東邦出版(編)2005 p.80)。
- ^ 調教師の瀬戸口は「期待半分不安半分」、厩務員の池江敏郎は「最初だし、GIIIで2、3着に来てくれたら充分」、騎手の河内洋は「強いことは確かだと思った。でも、どこまで強いかは未知数」と思っていた(渡瀬1992 pp.137-139)。
- ^ なお、競馬マスコミの一部にはGIの宝塚記念で古馬と戦うべきだという意見もあった(渡瀬(2002)p.153)
- ^ 笠松競馬場時代には、3歳時に10戦目の師走特別で古馬と対戦している。
- ^ 従来の記録は1972年にハイセイコーが記録した4連勝
- ^ 天皇賞(春)と宝塚記念
- ^ ただしレース10日前の12月15日には、岡部幸雄の提案により、スクーリングのために有馬記念が行われる中山競馬場で調教が行われた(渡瀬1992 pp.190-191)。
- ^ 超音波治療機による治療は以後、温泉療養施設以外の場所でも常に行われた。
- ^ 騎乗した南井はレース後、「中距離のゆるい流れのレースばかり使っていたので、マイル戦の速い流れに苦労したのでしょう。」と回顧している。(有吉・栗原1991 p.130)
- ^ ただし、競馬における計時方法(計測開始時点が異なる)、計測単位(1/100秒〜1/5秒)などは国・州などによって異なる。
- ^ 同タイムで走破したのに敗れたことから、ホーリックスが南半球のオセアニア産馬であることに引っ掛けて「北半球最速馬」と言う呼び方をしたファンもいた。
- ^ 体調の不安は関係者も感じており、パドックでは厩務員の池江がオグリキャップの歩く力の弱さを感じ、また笠松時代の調教師であった鷲見がオグリキャップを見て、馬主の近藤に対して「疲れきっとるようです。休ませんと可哀相です」と言った(渡瀬1992 pp.265-266)
- ^ 佐橋は一時、アメリカで馬主資格を取得してオグリキャップを移籍させることや、競走馬を引退させ種牡馬にすることも考えたが、断念した(有吉・栗原1991 pp.96-98)。
- ^ なお、佐橋と近藤の間にはオグリキャップが種牡馬となった際に佐橋が近藤に対し何らかの利益を得るという口約束も交わされており、実際にオグリキャップが引退した後、佐橋の所有する種付け権1株が近藤に無償で譲渡された(渡瀬1992 pp.204,470)。
- ^ 山本徹美によると1989年のジャパンカップ終了後、近藤は佐橋に翌1990年のローテーションについて相談をしている(山本1992 pp.212-213)
- ^ なお、近藤は購入時点で24年間中央競馬の馬主資格を保持していたが一度も重賞を優勝したことがなく、どうしても中央競馬の重賞やGIを勝ちたいということが購入の動機としてあった(山本1992 p.175、有吉・栗原1991 p.100)。
- ^ 栗東トレーニングセンターの競走馬診療所に勤務していた獣医師の松本実は「京都で走って、東京へ輸送して、そしてすぐにレースに臨むというのは、馬にとっては相当にこたえること」であり、「常識的に考えればちょっと過酷」と述べた。(渡瀬1992 p.234)
- ^ 競馬評論家の大川慶次郎は、「ああ、オグリはもう今年で終わりだな」と思ったと述べている(光栄出版部(編)1996 p.112)
- ^ ライターの藤井幸介は「無茶苦茶だ」、「人の欲にまみれた使い方だ」と陣営を非難した(光栄出版部(編)1996 p.56)
- ^ なお、2代目の馬主であった佐橋はオグリキャップの賞金獲得額を世界歴代1位にすることを目標とし、「馬に対する馬主の責任」と述べていた(渡瀬1992 p.123)。また3代目の馬主であった近藤も、10億円をクリアすれば世界一として国際的に認められると述べ、また「ルドルフに強さではかないません。でも、ルドルフができなかったことはやってみたい。ぜひ、アメリカで勝たせたい」と述べた(渡瀬1992 p.307、有吉・栗原1991 p.151)。
- ^ 引退論は競馬ファンやマスコミのほか、翌年から種牡馬となることが決定していたオグリキャップの種付け権を持つ者からも上がった。(渡瀬1992 p18、348-349、432、光栄出版部(編)1996 p.69)
- ^ 当時200人強いたとされるスポーツ紙、競馬専門紙の予想家の中でオグリキャップに本命の◎を打ったのはわずかに4人だけであった(第35回有馬記念復刻版DVD 鈴木淑子の有馬記念回顧)。
- ^ 競馬評論家の大川慶次郎は、この時期のオグリキャップの体調は一貫して悪かったとしており、天皇賞(秋)の前に栗東トレーニングセンターでオグリキャップを見て体調が悪いと判断し、以降一貫して予想において無印とした(大川1997 pp.147-148)
- ^ 鷲見昌勇は天皇賞(秋)の後栗東トレーニングセンターでオグリキャップを見た際、「馬(の体)が寂しく見えた。疲れが抜けておらんのやないか」という印象を抱いた(渡瀬1992 p.400)。
- ^ この年の秋は以前ほどの気迫を感じなかったと述べている(渡瀬1992 p.346)
- ^ ジャパンカップの前には馬がおとなしすぎる、昔ほど気合が乗ってこないと述べていた(渡瀬1992 p.417)
- ^ ストレスが原因で食欲が落ちているとも報道された(渡瀬1992 p.378)
- ^ なお、ジャパンカップの前には厩舎スタッフからの要望によりマスコミの取材は自粛され(渡瀬1992 p.416)、さらに有馬記念の前には馬主の近藤が関係者以外の厩舎への立ち入りをすべて禁止した(渡瀬1992 p.427)。
- ^ 「元気なころのオグリとは様子が違う」「今のオグリとなら、うちのオースミでも勝負になるような気がする」と述べた。(渡瀬1992 p.438)
- ^ 「なんか元気ないね。昔は怖いくらいの迫力があったもんや。それが全然感じられんもんな」と述べた(渡瀬1992 p.439)
- ^ オグリキャップがスポーツ心臓を失った原因に関して吉村は、取材の過熱によって受けたストレスによる自律神経失調症を疑った(渡瀬1992 pp,407-408)
- ^ 安藤によると、久々に間近で見たオグリキャップは笠松時代よりも10cmほど体高が高くなっていたという(安藤2003、p.110)。
- ^ 安藤によると、当初は1周する予定であったが、あまりの乗り味の良さに2周したという(安藤2003、p.111)。
- ^ 施行条件は、かつてオグリキャップが優勝したマイルチャンピオンシップと同じ京都競馬場芝1600m。
- ^ 種牡馬登録自体は抹消されておらず、去勢もされていない。種付け料はプライベートとなっていた。
- ^ ミンナノアイドル
- ^ 4月29日には後述のオグリキャップ記念と、「芦毛伝説オグリキャップ賞」と銘打たれた芦毛馬限定のレースが開催された。
- ^ オグリキャップが見学再開。見学マナーの厳守を!
- ^ 初めて調教で騎乗した時に「4歳なのに古馬のようなどっしりした落ち着きがある」と感じた(渡瀬1992 p.137)
- ^ 「ひとつ年齢が違うみたいに落ちついていて利口な馬」と評した(渡瀬1992 p.191)
- ^ このことについてヤエノムテキの厩務員(持ち乗り調教助手)の荻野功は「オグリキャップみたいな馬は信じられん」と述べている。(渡瀬1992 p.319)
- ^ タマモクロスの管理調教師であった小原伊佐美は、タマモクロスとオグリキャップを比較して「タマモクロスは神経が細くて、やんちゃな馬だけど、向こうはドシッとして落ち着きがある。年齢とは反対に、オグリが中学生としたらうちのクロスは小学生みたいに見えた」と評価し、「二頭のうちどちらに乗りたいかと聞かれたら、迷わずオグリキャップと答えるでしょう」と述べた。(渡瀬1992 p.200)
- ^ 1989年のジャパンカップでホーリックスに騎乗したランス・アンソニー・オサリバンは、オグリキャップがゴール板を過ぎた後もホーリックスの前へ出ようとする様子を見て、「あの勇気、真の意味で、レースホースと呼べるでしょう。ベスト・ルッキング・ホースであり、ベスト・レース・ホースです。一度でいいから、あんな馬に乗ってみたい」と評した。(渡瀬1992 p.252)
- ^ バンブーメモリーの管理調教師であった武邦彦は、オグリキャップを「オグリはレースに出ればいつでも一生懸命に走る。そこが偉い」と評した。(渡瀬1992 p.355)
- ^ 笠松競馬場在籍時に主戦騎手を務めた安藤勝己は、最初から人の意思や競馬の仕組みを理解していたと述べている(安藤2003、pp.110-111)。
- ^ 笠松時代の担当厩務員(2代目)であった川瀬友光は、運動をさせるときはおとなしく利口で、なんと扱いやすい馬かと思ったと述べている(渡瀬1992 p.97)。
- ^ オグリキャップの調教を担当した調教助手の辻本光雄は、同馬の一番の長所として学習能力の高さ(同じ物に二度物見をしない、一度叱られると同じことをしない、など)を挙げた。(東邦出版(編)2005 pp.114-115)
- ^ 栗東トレーニングセンターでオグリキャップの診察を担当していた獣医師の吉村秀之は、オグリキャップが厩舎の馬房の隅でじっと動かずにいることが多かったことについて、無駄な労力を使わないためであり賢さの現れとしている。(渡瀬1992 pp.160-161)
- ^ 中央競馬時代の担当厩務員であった池江敏郎はオグリキャップについて、池江が厩舎に通勤する時に乗っていた車のエンジン音を聞き分けるなど賢い馬だったと述べている(渡瀬1992 p.286)。
- ^ 出血の予防と治療のために厩務員の池江は常にかかとに薬を塗っていた。
- ^ 時期はニュージーランドトロフィー4歳ステークス出走後。以降対策として爪の成長を促すためゼラチンが投与された。
- ^ 調教助手の荻野功は「サラブレッドは一度故障したらもろいもんやけどね、それが立ち直って、いつも全力投球しとるんやから頭が下がる」、「あのタフさは、怪物どころやないよ。化け物や」と評した。(渡瀬1992 p.358)
- ^ 調教師の高松邦男は、過密なローテーションで出走するオグリキャップについて「よく壊れないものだと感心させられ(る)」、「オグリの持っている生命力そのものが凄い」と評した。(渡瀬1992 p.349)
- ^ 通常調教は騎手や調教助手が行うが、ダンシングキャップの産駒はゲート試験(ゲートをスムーズに出られるかどうかの試験)を合格しないものが多かったため、鷲見自ら行うこととした。
- ^ 競馬場の改装のために入場制限が行われていた1988年、1989年の有馬記念、前年の施行競馬場が異なる1989年のオールカマーについては比較対象から除外
- ^ 当時、中京競馬場の電光掲示板には9億9999万9900円まで表示が可能であったが、10億を超える(最終的な売上額は10億9088万3300円)売り上げを記録したことによる。
- ^ 1988年の京都4歳特別、ニュージーランドトロフィー4歳ステークス、毎日王冠、天皇賞(秋)、有馬記念、1989年のオールカマー、天皇賞(秋)、マイルチャンピオンシップ、有馬記念、1990年の安田記念、宝塚記念、天皇賞(秋)
- ^ 例えば武とオグリのコンビが初めて実現した1990年の安田記念では、女性の観客が前年の約2倍の1万3488人に増え(山本1992 p.229)、同年の有馬記念当日は総入場者数17万7779人中、全体の10%近くを占める1万5375人の女性客が入場した(駿を愛する会(編)1991 )。これは有馬記念史上初の記録で(ありがとうオグリキャップ、p.42)、その2年前はわずか2%であった(駿を愛する会(編)1991 )。また東京競馬場で行われたオグリキャップの引退式当日(1991年1月27日)の女性の入場者数は前年比385.5%増の9456人であった(東邦出版(編)2005 p.28)。
- ^ 株式会社アバンティー。佐橋はオグリキャップの競走馬名を商標登録し、さらに形態を意匠登録したため、ぬいぐるみ以外のグッズの商品化の権限もアバンティーが握っていた。(渡瀬1992 pp.370,390。山本1992 pp.209-211)
- ^ 対象はJRA賞の投票委員、引退した中央競馬の調教師、競走馬生産者、JRA職員OB、競馬ファンの著名人
- ^ 高橋は研修のため、青木は肩の脱臼のため。
- ^ 野平は具体的な理由として、逃げたダイナカーペンターを深追いし速いペースで走行したことと、スタート後手綱をしごいてまで2番手につけた結果折り合いを欠いたことを挙げた
- ^ 安田記念のパドックでは武に対し「オグリのこと嫌いだったんじゃないのか」という罵声が浴びせられ(渡瀬1992 p.300)、「武は降りろ。オグリを南井に返せ」という横断幕が掲げられた(サラブレ編集部(編)2007 p.227)。
- ^ ただしスーパークリークはレース1週間前に故障を発症して出走を取り消し、レース当日はシンウインドに騎乗した。
- ^ ハツ子は増沢の初勝利馬ワンスターの馬主でもあった。
出典
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- ^ 渡瀬1992 pp.415-416
- ^ 渡瀬1992 pp.188-190
- ^ 渡瀬1992 p.214
- ^ 渡瀬1992 pp188-190、有吉・栗原1991 pp.89-90
- ^ 渡瀬1992 p.350
- ^ 渡瀬1992 p.292
- ^ 有吉・栗原1991 p.147
- ^ 渡瀬1992 p.297、光栄出版部(編)1996 pp.62-63
- ^ a b 武・島田2004、109頁。
- ^ 木村幸1997、48頁。
- ^ 武・島田2007、p.30
- ^ 渡瀬1992 p.447
- ^ 渡瀬1992 p.309
- ^ 有吉・栗原1991 pp.161-162、山本1992 pp.240-241
- ^ 渡瀬1992 p.314
- ^ 増沢1992 pp.69-70
- ^ 木村幸1998 p.66
- ^ 光栄出版部(編)1996 p.92、有吉・栗原1991 p.12
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