若桜藩
若桜藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 08:42 UTC 版)
「若桜藩」も参照 若桜藩(わかさはん)は鳥取西館新田藩ともいい、鳥取藩の2代藩主綱清が元禄13年(1700年)5月25日に弟の池田清定(池田光仲の四男)に新田1万5000石を分知したのが始まりで、藩庁は鹿奴藩と同じく鳥取に置かれた。なお、江戸屋敷が鉄砲洲にあったことから、鉄砲洲家ともいわれる。2代藩主定賢は享保5年(1720年)、5000石の加増を受けて2万石の大名となり、さらに幕府から松平姓を許され、柳間詰となった。ただし、鹿野藩と同じく鳥取藩から蔵米で支給を受けていたため、実際に領地はなかった。そのため鳥取藩からの独立性は薄く、若桜には鳥取藩から派遣された御付人による政務が行なわれていた。 歴代藩主の中では5代藩主定常(松平冠山)が藩政改革を行い、また文学者としても有名で「柳間の三学者」「文学三侯」と称された。 明治元年(1868年)12月10日、10代藩主徳定のとき、若桜(現在の八頭郡若桜町)に若桜陣屋を置いたため、若桜藩と呼ばれるようになった。明治3年(1870年)、鳥取藩に帰属した。藩主家は明治17年(1884年)、子爵となった。
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