結城氏
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結城氏(ゆうきし)は、日本の氏族。平安時代末期から戦国時代にかけて、主に下総で活動した大身。通字として「朝」(とも)や「広」(ひろ)が名前に用いられている。
注釈
- ^ 茨城県結城市。
- ^ 栃木県小山市。
- ^ 4代目時広は12歳前後(広綱の没年に諸説あり)、5代目貞広は2歳、6代目朝祐は1歳、7代目直朝は12歳、8代目直光(直朝の弟)は16歳で家督を継承している。
- ^ 両結城・小山氏は家紋が同一のため、同士討ちを避けるためという。
- ^ 福島県白河市。
- ^ 結城氏に関する論文集である『シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻下総結城氏』(荒川善夫 編著、戒光祥出版、2012年)ISBN 978-4-86403-069-4 の巻末系譜(作成者:荒川)では、こうした研究を反映させる形で結城成朝以後を「12代成朝・13代基景・14代氏広・15代政朝・16代政直・17代政勝・18代晴朝・19代朝勝・20代秀康」と記述している。
出典
- ^ 『吾妻鏡』正治元年10月27日条。
- ^ 松本 2010, 第2章 寒河尼.
- ^ 白河集古苑所蔵『白河結城家文書』「正月十八日後醍醐天皇綸旨案」(なお、同文書中に「元弘三年」の注記が挿入されているが、実際には天皇の京都復帰後の「元弘四年(建武元年)」が正しいとされている)
- ^ 髙橋 2010, pp. 20–23.
- ^ 史料編纂所 1903, pp. 913–915.
- ^ 『茂木文書』「建武三年十二月日茂木知貞軍忠状」(『大日本史料』第六編三所収[5])
- ^ 髙橋 2010, pp. 23–24.
- ^ 荒川 2012, p. 15.
- ^ 荒川 2012, p. 16.
- ^ a b 荒川 2012, p. 25.
- ^ 髙橋 2010, pp. 119–140.
- ^ 伊從保美 (2005年). “前橋藩・川越藩(松平氏)と厚木市域”. 厚木の大名. 2008年12月14日閲覧。『文化武鑑』の画像があり、川越藩主松平家の家紋として巴紋と桐紋が描かれている。
- ^ 髙橋 2010, pp. 72–77.
下総結城氏
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同時期、下総国の結城氏では、父・結城氏広が早世し、結城政朝はわずか3歳で家督を継承した。しかし、実権は重臣の多賀谷和泉守に握られており、多賀谷氏の専横がしばらく続いていた。元服後、政朝は多賀谷基泰の力を借りて多賀谷和泉守を誅殺している。その後、下野国の宇都宮成綱の姉である玉隣慶珎大姉を妻として迎える。これによって成綱と政朝は義理の兄弟となり、同盟関係を築いた。この同盟は宇都宮成綱が没するまでの間、大いに機能し、宇都宮、結城の良好な関係はしばらく続いた。
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