奥州葛西氏家臣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/10 03:47 UTC 版)
及川氏は岩手県南部から宮城県北部にかけて勢力を有した葛西氏の家臣となったが、その経緯から三つの家系に分かれている。 定嗣系 まず政嗣の孫・及川定嗣がもっとも早期に葛西氏の家臣となっているが下に述べるようにのちに滅ぼされた。 頼只系 次いで応永の頃、光綱の子孫で葛西家臣となり奥州に移住した者として及川頼只がいた。 光村系 最後に葛西氏家臣となった系統である。結城合戦で白河結城氏は宗家の下総結城氏に背き幕府側についた。及川光房の曾孫・及川光政は討死、光政の子・及川光村はすべての所領を失い逃亡した(光政・光村の父子は勝利した側の家臣のはずであり詳細な経緯は不明であるが、おそらく主家を裏切って下総結城氏に寝返ったものの敗北してしまったということのようである)。光村は中奥の葛西氏を頼ったが、南奥の諸氏は下総結城氏側の支持者だったので、彼らの支援によって葛西氏とのつながりができたかとも思われる。葛西持信は光村に領地を与えて家臣とした。 15世紀中頃(室町時代)、定嗣の子孫は葛西家に対して謀叛を起こしたが、光村がこれを鎮圧。それで定嗣の系統は滅亡し、光村の家系が取って代わり、及川氏は多くの分流を派生しつつ、奥州に増え広がった。現在、及川という苗字は岩手県の中部南部と宮城県の北部を中心としつつも(両県合わせて全及川氏の53%)、青森・秋田・山形・福島の東北地方各県に散在している。 16世紀初頭(戦国時代中頃)、光村の孫・及川重胤は江刺氏と戦って敗れ、光村の家系は衰退した。代わって頼只の子孫・及川頼高が城を継承した。
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