里見忠義
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里見 忠義(さとみ ただよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。安房国館山藩の第2代藩主。安房里見氏の当主・里見義康の長男。徳川秀忠より偏諱を受け、忠義と名乗った。
- ^ a b 大野 1933, p. 475.
- ^ a b 大野 1933, p. 477.
- ^ 大野 1933, p. 554.
- ^ 高橋覚「捕鯨業で民衆を支えた醍醐新兵衛」『千葉史学』20号、1992年。
- ^ 川名登「房総里見文書の研究」『日本歴史』179号、1963年。
- ^ 小宮義夫「『かなまり』の秘宝(その二)― 知恩寺の十代里見忠義寺領寄進状―」『館山と文化財』23号、1989年。
- ^ 大野 1933, p. 492.
- ^ 大野 1933, p. 494.
- ^ 島津晴久、岡田晃司「鳥取県東伯郡北条町北尾の八幡神社に伝わる里見忠義寄進棟札について」『千葉県の歴史』30号、1985年。
- ^ 大野 1933, p. 507.
- ^ 大野 1933, p. 508.
- ^ 大野 1933, p. 511.
- ^ a b 千野原靖方『里見家改易始末―房総戦国大名の落日―』崙書房、2001年、137-140頁。
- ^ 滝川恒昭「上野国板鼻城主里見讃岐守について」『館山と文化財』29号、1996年。
- ^ 富浦町史編さん委員会 編『富浦町史』1988年、279-280頁。
- ^ 川名登『房総里見一族』(増補改訂版)新人物往来社、2008年、214頁。
- ^ 佐藤博信 著「房総里見氏家臣堀江頼忠の軌跡―安房国から伯耆国へ―」、里見氏調査会 編『里見氏叢書1 今よみがえる里見忠義の足跡―伯耆倉吉里見忠義関係資料調査報告書―』NPO法人安房文化遺産フォーラム、2008年。
- ^ 忠義の子供たち
里見忠義
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里見氏は安房国の戦国大名に由来する外様大名であり、里見忠義は館山藩主として安房一国ならびに常陸国鹿島郡の12万2000石を領していた。慶長19年(1614年)、大久保忠隣が改易されると、忠隣の孫娘を妻としていた忠義も連座し、9月9日に安房一国の没収を言い渡される。ただし、関ヶ原の戦いの戦功による加増地である常陸鹿島3万石については代替として伯耆国倉吉に所領が与えられることになった。倉吉へは堀江頼忠(能登守)、正木時茂(大膳亮)、板倉昌察(牛洗斎)らの重臣が同行しているが、同行した家臣は多くなかったとされる。 12月に忠義は倉吉に到着する。倉吉の神坂に屋敷を与えられたが、代官山田五郎兵衛から引渡されたのは久米・河村両郡のうち4千石であったとされる。忠義は打吹城(倉吉城)に入ることもなく、神坂村(現在の倉吉市東町)に居住した。ただ、元和2年には山田八幡、北野天神の二社を修造、元和6年には山長大明神で社殿の修造を行っているので寄進をするだけの財力があったことが確認できる。また北条町北尾の八幡神社修造の際に忠義が出した棟札も現存が確認されている。 1617年(元和3年)に池田光政が鳥取藩主として入封すると、重臣伊木忠貞が倉吉に入り、忠義は事実上池田家お預けの身となった。4000石の所領は召しあげられ、百人扶持を与えられて倉吉郊外の下田中村(現在の倉吉市下田中)に移された。さらに1619年(元和5年)には堀村(現在の倉吉市関金町堀)に移されている。元和8年(1622年)に忠義は没したが、嗣子なしとされ、里見氏は改易された。 なお、里見家重臣であった正木時茂は、大坂の陣終了後、再び時茂のみが家康に駿府に呼び戻され、家康死後の元和3年(1617年)、今度は徳川秀忠の命によって、江戸の桜田に住まわされ、江戸城中はもとより他の旗本衆への出入りも許されなかった。元和8年(1622年)の忠義没後、時茂は池田光政にお預けとされて鳥取に移され、寛永7年(1630年)に鳥取で没した。倉吉の大岳院には、里見忠義・板倉昌察・正木時茂らの墓がある。
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