里見忠義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/31 14:54 UTC 版)
八賢士
忠義の死去から三ヶ月後の9月19日、板倉昌察ら8人の側近が殉死し、忠義とともに大岳院に葬られ「八賢士」と讃えられた(6人、7人説もある)。川名登は「この殉死した八人の話で、ふと『南総里見八犬伝』を思い出す。馬琴はどこかでこの八殉死者の話を聞いたのではなかろうか。殉死者の気持は、『八犬伝』の中の八犬士のような働きをして再び里見家を再興したかったにちがいない。」と述べている[16]。なお、板倉昌察の殉死は確認することができないとする指摘もある[17]。
家族
以下出典は参考[18]による。
- 父:里見義康(1573-1603)
- 母:織田信長の姪
- 正室:大久保忠常の娘
- 側室
- 男子:里見利輝(慶長19年(1614年) - 正保元年(1644年))
- 側室:山下休蔵の娘
- 男子:山下貞倶(通称は休三、寛永11年(1634年)に徳川家光に仕え旗本になり、苗字を里見とする)
- 側室:広辺高次の娘
- 男子:広部義次 - 通称は忠三郎
※ただし、山下貞倶、広部義次の2名については忠義の実子かどうか疑問とする説がある[13]。
忠義に関する行事・祭事
参考文献
- 大野太平『房総里見氏の研究』寶文堂書店、1933年。
関連項目
外部リンク
- ^ a b 大野 1933, p. 475.
- ^ a b 大野 1933, p. 477.
- ^ 大野 1933, p. 554.
- ^ 高橋覚「捕鯨業で民衆を支えた醍醐新兵衛」『千葉史学』20号、1992年。
- ^ 川名登「房総里見文書の研究」『日本歴史』179号、1963年。
- ^ 小宮義夫「『かなまり』の秘宝(その二)― 知恩寺の十代里見忠義寺領寄進状―」『館山と文化財』23号、1989年。
- ^ 大野 1933, p. 492.
- ^ 大野 1933, p. 494.
- ^ 島津晴久、岡田晃司「鳥取県東伯郡北条町北尾の八幡神社に伝わる里見忠義寄進棟札について」『千葉県の歴史』30号、1985年。
- ^ 大野 1933, p. 507.
- ^ 大野 1933, p. 508.
- ^ 大野 1933, p. 511.
- ^ a b 千野原靖方『里見家改易始末―房総戦国大名の落日―』崙書房、2001年、137-140頁。
- ^ 滝川恒昭「上野国板鼻城主里見讃岐守について」『館山と文化財』29号、1996年。
- ^ 富浦町史編さん委員会 編『富浦町史』1988年、279-280頁。
- ^ 川名登『房総里見一族』(増補改訂版)新人物往来社、2008年、214頁。
- ^ 佐藤博信 著「房総里見氏家臣堀江頼忠の軌跡―安房国から伯耆国へ―」、里見氏調査会 編『里見氏叢書1 今よみがえる里見忠義の足跡―伯耆倉吉里見忠義関係資料調査報告書―』NPO法人安房文化遺産フォーラム、2008年。
- ^ 忠義の子供たち
固有名詞の分類
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