里見成義の実在に対する疑義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 10:09 UTC 版)
「里見成義」の記事における「里見成義の実在に対する疑義」の解説
里見成義が発給した文書は存在せず、伝えられる事跡についても裏づけを取ることができるものはない。しかしながら、重永卓爾は上総国光福寺や高野山西門院に現存する義成と署名された古文書を里見義成(成義)が発給したものではないかと指摘している。この重永の指摘に対して、滝川恒昭は夷隅地域で領主権を行使し、しかもその花押が戦国時代後期に一般的に流行したものであることを考えると里見ではなく、土岐義成の文書の可能性が高いと反論をしている。 「成」の字が足利成氏の片諱とする見方について佐藤博信は、里見氏歴代当主が名乗った「義」が里見氏を含めた新田・足利一族の通字であることから、更なる片諱の拝領の可能性を疑問視している。名前(ひいては人物そのもの)の創作である証拠とする。 近年では、成義は何らかの必要性があって加えられた作為的な架空の人物とし、義通・実堯兄弟は初代・義実の実子であったとする見方が有力である。
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