里見氏と館山とは? わかりやすく解説

里見氏と館山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 10:32 UTC 版)

館山市」の記事における「里見氏と館山」の解説

戦国時代には安房統一果たし安房国から勃興した里見氏上総国勢力広げ後北条氏関東覇権めぐって争ったその後上総から下総一部に至るまで勢力張った館山城築城年代について諸説あるが、岡本城南房総市)を居城としていた里見義頼1580年天正8年)頃に築城して城番を置き、義頼の後を継いだ里見義康1588年天正16年)から1590年天正18年)にかけて改修したとされ、92000石の所領治め現在の館山地区城下町形成された(館山町参照)。商人の船は新井浦(館山湾)へ入船することを義務づけるこのころもっとも繁栄していたのは館山地区であり、市の名前中心部の「館山」を採用している。なお、名前の由来は「城の山」=「館の山」からきている。1590年小田原征伐小田原城攻め以後は、上総国没収され安房一国里見氏領地となった関ヶ原の戦いでは、里見氏徳川家康支援して加封を受けたものの、江戸幕府成立後1614年慶長19年)に里見忠義大久保忠隣改易連座して伯耆国倉吉転封その後江戸時代には市域館山藩北条藩船形藩設置されていた(ただし、設置されていた時期にはずれがあり、廃藩置県時に存在していたのは館山藩のみである)。 大坂の陣活躍した木更津水夫への報奨として、江戸木更津間での渡船営業権などの特権与えられたことにより、1615年元和1年新井楠見現在の館山市)においても船乗り30人が、大坂の陣にて活躍されるその後木更津上総国安房国海上輸送玄関口として繁栄し海上輸送発達した江戸時代に主に東京湾内の輸送五大力船長さ31尺(約9.4メートル)から65尺(約19.7メートル)ほどの小型廻船)が活躍し上総国下総国同様、安房国においても海辺で穀類薪炭などの運送用いられる他、人を乗せて旅客輸送行っていた。鋸南町保田海岸描いた歌川広重の浮世絵である『富士三十六景』の「房州保田海岸」において、鋸山の下に位置する磯伝い道は館山港まで続いていたとされる当時安房国中心であった館山方面に至る磯伝い道は絶景の道ではあったが、交通難所としても知られていた。海岸の崖沿いを避けたトンネルの多い道路は、明治中期になって整備されている。館山藩廃藩後館山城受け取りの任にあたった佐貫藩内藤政長そのまま安房一国管理当たった1618年元和4年)に幕府代官の手によって再検が行われた安房国は、以後天領旗本領、小藩他国の藩の飛び地領に細分化され、安房一国治めていた旧館山藩の規模継承する藩は現れなかった。

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