里見氏と館山
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戦国時代には安房統一を果たして安房国から勃興した里見氏は上総国に勢力を広げ、後北条氏と関東の覇権をめぐって争った。その後、上総から下総の一部に至るまで勢力を張った。館山城の築城年代については諸説あるが、岡本城(南房総市)を居城としていた里見義頼が1580年(天正8年)頃に築城して城番を置き、義頼の後を継いだ里見義康が1588年(天正16年)から1590年(天正18年)にかけて改修したとされ、9万2000石の所領を治め、現在の館山地区に城下町が形成された(館山町も参照)。商人の船は新井浦(館山湾)へ入船することを義務づける。このころもっとも繁栄していたのは館山地区であり、市の名前も中心部の「館山」を採用している。なお、名前の由来は「城の山」=「館の山」からきている。1590年の小田原征伐(小田原城攻め)以後は、上総国は没収されて安房一国が里見氏の領地となった。 関ヶ原の戦いでは、里見氏は徳川家康を支援して加封を受けたものの、江戸幕府成立後の1614年(慶長19年)に里見忠義が大久保忠隣改易に連座して伯耆国倉吉に転封。その後の江戸時代には市域に館山藩・北条藩・船形藩が設置されていた(ただし、設置されていた時期にはずれがあり、廃藩置県時に存在していたのは館山藩のみである)。 大坂の陣で活躍した木更津の水夫への報奨として、江戸・木更津間での渡船営業権などの特権が与えられたことにより、1615年(元和1年)新井・楠見(現在の館山市)においても船乗り30人が、大坂の陣にて活躍される。その後、木更津が上総国・安房国の海上輸送の玄関口として繁栄し、海上輸送が発達した江戸時代に主に東京湾内の輸送に五大力船(長さ31尺(約9.4メートル)から65尺(約19.7メートル)ほどの小型廻船)が活躍し、上総国・下総国同様、安房国においても海辺で穀類や薪炭などの運送に用いられる他、人を乗せて旅客輸送も行っていた。鋸南町の保田海岸を描いた歌川広重の浮世絵である『富士三十六景』の「房州保田ノ海岸」において、鋸山の下に位置する磯伝い道は館山港まで続いていたとされる。当時、安房国の中心であった館山方面に至る磯伝い道は絶景の道ではあったが、交通の難所としても知られていた。海岸の崖沿いを避けたトンネルの多い道路は、明治中期になって整備されている。館山藩の廃藩後、館山城の受け取りの任にあたった佐貫藩主内藤政長がそのまま安房一国の管理に当たった。1618年(元和4年)に幕府代官の手によって再検地が行われた安房国は、以後天領、旗本領、小藩、他国の藩の飛び地領に細分化され、安房一国を治めていた旧館山藩の規模を継承する藩は現れなかった。
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