里見氏の城下町建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 10:09 UTC 版)
館山湾南東部(鷹ノ島の東南、柏崎から新井にかけての沖合)は、水深が深く、この海域に多い西風を避けられることから、古くから停泊地として利用されていた。戦国時代には、安房国を支配した戦国大名里見氏の水軍の拠点として使われたであろうと考えられている。天正8年(1580年)、里見義頼は、この海域を望む独立丘に館山城を築いた。現在は城山という名で呼ばれるこの独立丘には、里見氏の築城以前にも城館が構えられ、ここから館山という名で呼ばれていたようである。つまり、館山という地名はこの丘の名に由来する。 天正19年(1591年)、里見義康は里見氏の本拠を館山城に移すと(館山藩参照)、城山の周囲に家臣の居住地を造るとともに、その北側に商人・職人を集めて海に面した城下町を形成した。館山城下町は、真倉郷のうち浜方にあった新井浦と楠見浦に属する土地を一部割き、上町・中町・下町の三町に町割りしたのが始まりと伝承されてきた。実際には「新井町」を中心とする町場が発展して以後に三町に分けられたと考えられている。 慶長6年(1601年)、里見義康は城下の新井町(および北条町)の市以外での取引を禁止し、また他国商船の新井町以外への寄港を禁じた。これにより、半ば強引な形で城下町への商人の集住が行われた。その後、規制の緩和や諸税免除の政策がとられ、新井町の西側にあたる楠見町や、新井町と北条町の間の長須賀町などが町場として発展した。
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