里見氏に仕えた印東氏
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弘治2年(1556年)10月、里見義堯は嫡男の義弘に水軍を預け小田原北条氏の支配下にある三浦半島へ攻撃を命じているが、その配下に正木・秋元・印東氏らの率いる海賊衆の名が見える。 里見家中における印東氏の家格は、印東采女(家老・武具寺社奉行・316石)、印東六右衛門(中小姓頭・150石)、印東河内(馬乗八人衆・200石)、印東又七・印東長次郎・印東内匠(百人衆・50石)、印東惠斎(茶道・50俵)となっている。(『里見安房守忠義公家中帳』) 印東房一(采女)(?~?) 里見10代忠義公の重臣の1人で、館前という御庄に采女の屋敷跡があり、地元では城山(じょうやま)と呼ばれている。 「印東のぼら」は通称おかめトンネルといわれ、御庄と沓見の連絡を楽にしたもので、印東氏が掘らせたものといわれている。 山名の智蔵寺に中興開基として、功労のあった采女の木像が本尊と共に崇められている。 慶長11年、深名村常光寺に寺領を寄進する際、深名村に所領を持つ里見家臣に所領の引き渡しを命じており、その際、堀江頼忠と共に引き渡しを求める書状に連署している記録がある。 印東主膳(?~?) 慶長年間頃、検地役人。 印東河内守(?~?) 慶長年間頃、検地役人。二十人衆。慶長十八年、安房神社への寄進を安房国中の村々に求めた。
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