里見忠義と八賢士
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慶長19年(1614年)、安房国館山藩主・里見忠義は大久保忠隣失脚に連座し、倉吉藩に移封された。実質的には流罪ともいわれ、忠義は打吹城に入ることはなく大岳院門前の神坂村に居住した。大岳院には里見忠義が寄進した「三彩稜花刻花文盤」が寺宝として現存する。忠義はそののち堀村(現・関金町)に移り、元和8年(1622年)に没した。戒名は「雲晴院殿心叟賢涼大居士」。忠義は遺言により大岳院に葬られた。 忠義の葬儀ののち、8人の近臣が殉死した(人数には異説もある)。大岳院の過去帳には8人の殉死者の戒名が記されているが、主君の戒名にも含まれる「心」と「賢」の字が共通して入っており、とくに「賢」の字に着目して「八賢士」と呼ばれている。このことから曲亭馬琴の読本『南総里見八犬伝』の「八犬士」のモデルではないかという解釈がある。大岳院には忠義と八賢士の墓があるほか、忠義の叔父である正木時茂(正木大膳)や、家老堀江能登守の墓所もある。
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