八賢士
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 23:36 UTC 版)
史実の里見家最後の当主であった館山藩主里見忠義は、江戸幕府によって伯耆国に転封され(倉吉藩参照)、1622年にその地で没した。このとき忠義に殉死した8人の家臣があり、戒名に共通して「賢」の字が入ることから八賢士と称される。彼らの墓は鳥取県倉吉市の大岳院にあり、また倉吉から分骨した墓が館山城の麓に建てられている。この「八賢士」を八犬士のモデルに求める説もある。 川名登は「この殉死した八人の話で、ふと『南総里見八犬伝』を思い出す。馬琴はどこかでこの八殉死者の話を聞いたのではなかろうか。殉死者の気持は、『八犬伝』の中の八犬士のような働きをして再び里見家を再興したかったにちがいない。」と述べている。 もっとも、この言説が広まったのは『八犬伝』が一世を風靡してからとも指摘される。
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