下総三浦藩とは? わかりやすく解説

下総三浦藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/14 09:17 UTC 版)

下総三浦藩(しもうさみうらはん)[要出典]は、徳川家康の関東入国後から江戸時代前期にかけて存在した三浦重成下総国上総国で1万石が与えられて成立した。1631年、三浦重勝に嗣子なく改易。居所は下総国佐倉(現在の千葉県佐倉市付近)とも上総国大網(現在の千葉県大網白里市)ともされるが、三浦家が早い時期に断絶となったためにこれを確定する史料が存在しない。『藩史大事典』などでは「三浦重成・重勝領」[1]と呼称される[注釈 1]


注釈

  1. ^ このほか、『角川新版日本史辞典』の「近世大名配置表」では「三浦重成・重勝領」とする[2]
  2. ^ 赤丸は本文内で藩領として言及する土地。青丸はそれ以外。
  3. ^ 一般に三浦義次は三浦義成の別名とされるが、『大網白里町史』は「義次とこの重成が同一人物であるかどうかは、現在のところ判定しえない」として保留している[3]
  4. ^ 『大網白里町史』が依拠する中村孝也『徳川家康の研究』による[3]
  5. ^ 重勝の弟として三浦重政がいたが、当初病弱のために出仕せず、のちに阿部正次の家臣となって代々続いた。
  6. ^ 蓮照寺の供養塔を「二代の供養塔」としている

出典

  1. ^ 『藩史大事典 第2巻 関東編』 目次”. 雄山閣. 2023年6月10日閲覧。
  2. ^ 『角川新版日本史辞典』, p. 1302.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 家康の関東支配と上総武士の去就 (2) 三浦監物の町域支配 大網村(大網白里町史)”. 大網白里市/大網白里市デジタル博物館(ADEAC所収). 2019年9月11日閲覧。
  4. ^ 第四編>第一章>第二節>関東知行割”. 守谷町史/守谷中央図書館(ADEAC所収). 2019年9月11日閲覧。
  5. ^ 町域村々の領主支配の変遷 (1) 村々の所領状況 大網村(大網白里町史)”. 大網白里市/大網白里市デジタル博物館(ADEAC所収). 2019年9月11日閲覧。
  6. ^ 佐倉藩主”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. 2020年11月10日閲覧。
  7. ^ a b 五輪塔・宝篋印塔(大網白里町史)”. 大網白里市/大網白里市デジタル博物館(ADEAC所収). 2019年9月11日閲覧。
  8. ^ 『房総における近世陣屋』, p. 82.


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