福井藩
福井藩
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弘化元年(1844年)2月29日福井藩士溝口郷右衛門の次男として生まれた。幼名は辰五郎。幼少期藩儒吉田東篁に漢籍を学び、安政3年(1856年)明道館創設により学生となり、橋本左内に蘭学を学んだ。明道館の校訓「文武不岐」に基づき、子秉の字、斌(なかば、「文武相半ばす」の意)の名を賜り、安政4年(1857年)勉学啓発のため『啓発録』を書き贈られた。 安政4年(1857年)8月20日藩の留学生として左内に従い江戸に上り、浜松町大木忠益塾に入った。安政5年(1858年)1月には京都、4月には江戸と、松平春嶽の下で国事に奔走する左内に付き従い、安政の大獄では10月22日常盤橋の左内邸で尋問を受けた。安政6年(1859年)2月14日祖父の病気により帰郷し、窮理学、暦学、数学等を学び、明道館で詩文、算術を教えた。元治元年(1864年)長州征伐に従軍した。 慶応2年(1866年)10月3日加藤恒一の家督を継いで大番組に入り、11月26日役筒頭、12月25日軍事方となり、28日所左衛門と改称した。慶応3年(1867年)4月11日英学句読師となり、慶応4年(1868年)6月12日上京した。
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福井藩
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松平春嶽(まつだいら しゅんがく) (松平慶永 → 松平春嶽) 演:要潤 福井藩主。諱は慶永(よしなが)。官職は越前守(えちぜんのかみ)。 美しいものに心酔する癖があり、それゆえに慶喜に期待を寄せ、薩摩の島津斉彬とも協力して、慶喜を将軍にすべく尽力する。家定からは嫌われており、彼の命を受けた直弼により、隠居・謹慎を命じられる。その後赦免され、勅使とともに東下した久光の求めにより政事総裁職に就任する。将軍後見職となった慶喜とともに上洛し、三条実美ら攘夷派公卿を説得する。その後、朝議参与に任じられるが、幕府の政治に限界を感じており、慶喜に対し「一度全てを捨て、新しい世を作ろうではないか」と大政奉還を持ち掛けるも拒否される。同じ参与の島津久光とともに横浜開港を推進する。中川宮の面前で酔ったふりをした慶喜に罵倒された際には、席を立った慶喜を追って「あなたは何という強情公だ」と呆れるも、慶喜に「私は公方様をお守りします」と返される。参与会議後、福井に帰る。その後、来訪した大久保一蔵から雄藩連合のため再び京に出るよう促され、雄藩連合はもとは左内の考えだったと回顧にふけりながら、これを了承する。 四侯会議解散後、大政奉還を行った慶喜の真意を知り、小御所会議では慶喜を擁護する。 明治維新後、民部卿に就任する。 橋本左内(はしもと さない) 演:小池徹平 福井藩士。松平春嶽の側近。 雄藩連合を構想し、金平糖を使って春嶽を説得している。将軍継嗣問題に際して慶喜の英邁さを伝える著作を記すため円四郎に接触する。しかしのちに安政の大獄による弾圧に遭い、生きるよう円四郎を促して、自身は処刑される。
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福井藩
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嘉永3年(1850年) 福井藩の砲術師範となる。 嘉永6年(1853年)10月23日 福井藩の和解方(天文方付属の翻訳局)に任命される。
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