参預会議
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参預会議(さんよかいぎ、表記は参予会議/参与会議とも)は、江戸時代末期(幕末)の文久3年(1863年)末から翌年3月まで京都に存在した、朝廷の任命による数人の有力な大名経験者[1]から構成された合議制会議、およびその制度である。当時流行した公武合体論および公議政体論の一つの帰結ではあったが、参預諸侯間の意見の不一致から、わずか数か月で崩壊した。
- ^ 参預会議の構成員の中で純粋な大名と言えるのは松平容保のみであり、他は御三卿・前藩主・当主の血縁者などである。
- ^ 『続再夢紀事』文久三年十二月五日条「宮の御許より一橋殿宇和島殿及公同道にて一橋殿の旅館に集合せらる。会津公にも会せられたり。(中略)此日又薩藩より御集会の席へ提出ありしは公卿方の優柔不断実に云ふべからず。已に決したる事も容易に実施せられず。斯ては武家にて如何ほど勇決するも其詮なく到底大事は行はれがたし。故に賢明諸侯を朝廷に召され議奏の内に加へられ然るべしとの事なりしが衆議これを是とせられけれと武家より申出べき事ならねば如何はすべきとて尚又衆議を凝されし上薩侯其周旋を負担せらるゝ事に決せられき尤此事行はるれば一日は朝廷に参仕し一日は二条城に参仕する事と定め大樹公御上洛已前大躰に関する事項を粗決せらるべしとの計画なりしとぞ」。
- ^ 『孝明天皇紀』四巻十二月三日付久光宛宸翰に対する答申「関白辞表之事御至当之御事ト奉存候、此際退職無御座候テハ列藩之疑惑不少歟ト奉存候」。
- ^ 他のメンバーが大名もしくは前大名で朝廷の官位官職を有していたが、島津久光のみ無位無官だったため。久光も1月13日に参預任命と同時に従四位下左近衛権少将に任ぜられた(2月1日には大隅守を兼任)。
- ^ 『徳川慶喜公伝』3巻27ページ「尾張前大納言入京す、尋で参与を命ぜらる。前大納言之を辞して「資性暗劣にして幹事の才なく、殊更近年多病にして気力衰弱し、斯かる大政に参与して万一御一和の間隙を生ぜしめば、悔ゆとも及ぶべからず」といへる」。
- ^ 『徳川慶喜公伝』2巻、『伊達宗城在京日記』など。
- ^ 『徳川慶喜公伝』3巻19~22ページ。
- ^ 『徳川慶喜公伝』3巻24ページ「此三人は天下の大愚物・天下の大奸物なるに何とて宮は御信用遊ばるゝか。大隅守(久光)へは御台所御任せなさるにより、余儀なく御随従にもあるべけれど、明日よりは某より差上ぐべければ、某へ御随従あらせらるべし。天下の後見職を三人の大愚物同様には御見透あるべからず。畢竟三人の遊説を御信用遊ばさるればこそ、今日の如き過誤を引出したるなれ」。
- ^ 『徳川慶喜公伝』3巻26ページ「老中水野和泉守等は「又参予会議は天下の害物、寧ろ廃するに如かず」とさへいへり」。
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