本多正重
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/09 09:05 UTC 版)
本多 正重(ほんだ まさしげ)は、戦国時代から江戸時代前期の武将・大名。本多正信の弟。通称は三弥、のちに三弥左衛門。大坂の陣後に加増を受けて下総舟戸藩主となる。
注釈
- ^ a b 没年・享年からの逆算[1]
- ^ 『藩翰譜』には、正重が関ヶ原で宇喜多家の先陣として戦ったとされるのは誤り、と記している[2]。関ヶ原の合戦時に宇喜多家に仕えて戦ったのは甥の政重であり、『藩翰譜』編纂時にはすでに両者の経歴が混同されることがあったことが窺われる。
- ^ 下総国相馬郡は近世初頭に境界の変更が行われており、舟戸村などは葛飾郡に所属する。ただし「相馬」という地名でも引き続き認識されており、本多家は下総国にある自領を「中相馬領」「南相馬領」と呼称していた(舟戸藩参照)。
- ^ 幕初には「大名」と他の将軍直臣(旗本)の格式の境界は必ずしも明確ではなく、1万石以上を大名とする基準が成立したのは寛永10年代という説がある[5]。
- ^ 『角川日本地名大辞典』の「舟戸藩」の項目では本多正永以後を扱っており、正重の時代を記さない[7]。また、郡名から正重を「下総相馬藩主」とする事典もある[8]。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 『寛政重修諸家譜』巻第六百九十四「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.713。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『藩翰譜』巻十一、吉川半七版『藩翰譜 第10上−11』64/87コマ。
- ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』巻第六百九十四「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.714。
- ^ “長尾藩前史-駿州田中藩-”. 房州長尾藩 ―明治維新の大名と武士たち―. 館山市立博物館. 2022年11月8日閲覧。
- ^ “江戸時代、石高一万石以上を大名、一万石未満を旗本と身分分けしていたが、この基準が「一万石」である理由はなにか?”. レファレンス協同データベース. 2023年2月8日閲覧。の回答に引かれた、煎本増夫『江戸幕府と譜代藩』(雄山閣出版、1996年)の叙述
- ^ 『房総における近世陣屋』, p. 35.
- ^ “舟戸藩(近世)”. 角川日本地名大辞典. 2022年11月8日閲覧。
- ^ “本多正重”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2023年5月5日閲覧。
- ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第六百九十四「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』pp.713-714。
- ^ a b c d 『藩翰譜』巻十一、吉川半七版『藩翰譜 第10上−11』65/87コマ。
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