城地とは? わかりやすく解説

じょう‐ち〔ジヤウ‐〕【城地】

読み方:じょうち

城と領地また、城下

「今にも官軍—に逼らば」〈染崎延房近世紀聞


城地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/05 04:05 UTC 版)

沼津藩」の記事における「城地」の解説

沼津城 静岡県沼津市大手町 沼津城狩野川右岸築かれた。当時東海道は城と川に挟まれた場所を通る形となっていた。遺構としては、市内寺院移築伝えられる門がある。

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城地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 01:15 UTC 版)

久保田藩」の記事における「城地」の解説

入封当初は、秋田氏居城であった土崎湊城入り初代義宣の父義重を六郷城(秋田県美郷町六郷)に配するなど、横手大館能代十二所及び角館などの要所それぞれに佐竹一族や有力家臣配置した。これは反佐竹一揆各地勃発していたからである。 その後佐竹義宣秋田郡保戸野新城築城本拠とした。この地は北東と東を山で遮り旭川掘り換え西側外堀とした。羽州街道を西に配したことから四神相応の地に近しいものとした。本丸を含む城域現在の千秋地区がそれに相応する久保田城下町外町(とまち)と呼ばれる町人町現在の大町旭北及び旭南地域配された。しかし侍町及び足軽町は城下周辺中通南通楢山保戸野手形川口配置されその範囲町人町より広い。久保田城下が侍の町である証左であろう1885年明治18年)に行われた人口調査によると、当時秋田町久保田町から改称)の総人口30,254人のうち士族13,444人(44.4%)で、秋田県全体総人口642,930人のうち士族34,947人(5.4%)であった事と比べて明らかに士族集中している事が判る。これは一般士族が生活に困窮し城下町から離散し始めた時期調査であるため、廃藩置県時点での士族人口比は更に高く半々程度であった考えられている。 その後幕府より一国一城令が発せられ多くの城は取り潰されるが、久保田藩久保田本城以外に、横手大館の2城の存続許される。これらは久保田藩地方統制一環貢献した。この城や館に配され重臣は所預(ところあずかり)と呼ばれ、彼らも各自家臣団率いていたため、城地は小城下町として栄えた。 なお、佐竹一族には本家の他に有力な4家があり、常陸時代拠点位置由来してそれぞれ東家西家南家北家呼ばれる西家小場氏、後に佐竹姓を許される)は大館南家湯沢北家角館配され東家は4家の筆頭として久保田城下に常住した。このように久保田藩では近世入って地方知行制強く行われており、藩政中期以降藩主権限強化動き対し内紛の元となることもあった。なお、佐竹4家に藩主相続権はなかったが、支藩養子経て藩主相続したケースはある。4家の子孫としては、東洋製作所社長佐竹義利東家18当主秋田県知事佐竹敬久北家21当主である。

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