立地・構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 15:15 UTC 版)
妻木城は妻木川左岸の丘陵先端(標高407m 妻木上郷集落から比高200m)に位置する山城で、山頂に位置する城中枢(主郭・二の郭)と大手筋の小郭群、南西側尾根・南側尾根に普請された郭群からなる。大手は北麓の妻木氏館から繋がる現在の山道と想定される。緩斜面の尾根には小郭が配置され、さらに虎口状の地形で大手筋を守備し主郭北側下の三の郭(物見)に繋がっている。山頂には石垣で補強された段差で区画された主郭・二の郭が配置されており、南西・南側に派生した尾根は郭群で処理され、尾根に挟まれた谷地(搦手)を守備している。この谷地上部には土塁で区画された空間があり、搦手に対する馬出機能があったと考えられる。主郭と南西・南側尾根を遮断した堀切は横堀状に主郭をカバーするなど、戦国末期の高度な技術を利用していることから、数度にわたり改修されたと考えられる。
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立地・構造
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高良山から北西に延びる尾根上の標高175mの地点に位置し、眼下に筑後川や佐賀平野などが望める。東西55m、南北22mの本丸が最高所にあり、南以外の三方に土塁が築かれ、北西と南東に出丸、北側斜面には犬走りが設けられた。本丸の西の尾根に位置する二の丸は東西45m、南北17mの大きさで、さらにその西側には東西30m、南北20mの三の丸が配置されている。 高良山から当城に続く尾根や吉見岳から北と西に延びる尾根には大規模な堀切が設けられ、堅い防御を誇った。また、当城の北西には東光寺城、西には磐井城が支城として存在した。
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立地・構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/06 01:15 UTC 版)
館跡は都幾川と槻川の合流点北側の低台地にある平城で、館(城)の付近を鎌倉街道上道が通っていた。館跡中央のやや南寄りに平面長方形の本郭があり、その北側に二の郭、三の郭などを配置しており、それぞれの郭を土塁と堀で防備している。土塁の遺存状況は良好であり、郭の配置や土塁の構築法には近世的な平城の特徴をうかがうことができるが、本郭は単郭式の城館の面影をよくとどめており、鎌倉時代における菅谷館の中心部分と考えられる。中世館跡の遺構例としては稀少な遺跡であり、保存度もきわめて良好である。
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立地・構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/16 17:15 UTC 版)
現在の静岡県下田市の、下田港の湾口を扼する西側の岬全体が城地だった。直径800mの円内に複数の入江が点在する天然の地形を利用し、曲輪が配置されていた。本丸は東西12m・南北30mの平場で、本丸の北側に2段の天守曲輪があった。最南端のお茶ケ崎に物見櫓があり、直下の和歌の浦が船溜りとされた。
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立地・構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/21 10:14 UTC 版)
矢部川と笠原川の合流点の東側、半島状に突出する標高240.1メートルの猫尾山頂にあった。本丸は南北・東西の長さがそれぞれ約56メートルおよび28メートルで周囲に犬走りが設けられ、東西と建物部分には石垣、南北には土塁が築かれていた。また本丸の西には南北18メートル、東西40メートルの馬場を挟み、約30メートル四方の二の丸があった。反対側の本丸東には空掘を挟んで三の丸が設けられた。また、追手門の北側と本丸の南東・北東隅の3か所に櫓があった。城主・黒木氏の屋敷は西側の矢部川と笠原川に挟まれた場所にあり、土塁によって二の丸と繋がっていた。
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立地・構造
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熊本県上益城郡山都町の、城原字本丸および二の丸に位置する。城地は標高482mの尾根の南西端にあり、北・西・南は轟川に囲まれる。西端の最高所が本丸で、周辺斜面には同心円状の曲輪があった。その南側にある長円状の平坦地が二の丸、北東の尾根を削平した面が三の丸と呼ばれる。三の丸東側の堀切を挟み、土塁が残る。
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立地・構造
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温川と見城川が合流する大戸地区の中心地に城郭が位置しており、草津街道や越後街道が分岐する交通の要衝にあった。付近には江戸時代に設置された大戸関所がある。 長方形の主郭を頂点とし、主郭の北側に二つの曲輪が連郭式に配置されている。主郭を含む三つの曲輪を囲むように帯曲輪が西側に一つ、東側に二つ存在するが、これらは往時は外縁部に土塁を配した横堀であり、耕作により削平されたのではないかと推測されている。二番目の曲輪の北東隅に大手口への道が存在する。 主郭の南側は堀が残存しており、堀の外側に方形の台地が存在する。堀の南側は僅かに西側に段差が存在するのみであり、この地が城域に含まれるかも怪しいという。
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立地・構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/15 11:33 UTC 版)
熊本県山鹿市城字城の、菊鹿盆地西端の標高約50メートルの丘陵突端に位置する。主郭と二郭の2つの平坦地からなり、約80×50メートルの主郭には城跡碑がたつ。東と北の土手は裾部に曲輪が巡り、その先は急崖となっている。南も土手の裾部から郭が階段状に形成され、西は90メートル・深さ6メートルの大規模な空堀がある。 突出した主郭北東部の下には尾根を削平した二郭があり、周辺に細い帯曲輪が巡らされ、先は同じく急崖となっている。
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立地・構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 03:37 UTC 版)
東西約500メートル、南北約400メートルの天険の地を城域としており、標高106メートルの高森山の尾根を3段ないし4段に削平して中心となる曲輪を設け、峰続きの台地や谷を隔てた丘陵や台地の各所にも曲輪を置いて掘割を造って防御をかためている。大震災により一部の遺構が崩れたが、現在は復元された。
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立地・構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 17:08 UTC 版)
長野原集落の北側にある岩山に築かれた山城であり、縄張りは東西600mに及ぶこの地方を代表する要害である。 主郭を含む城郭の主要部から東側に延びる尾根筋上に複数の堡塁があり、西から順に秋葉山堡塁・箱岩城・東堡塁・天狗岩物見と呼ばれる。天狗岩物見から東側は断崖となっており、進入を遮断している。 城郭の主要部は南北に延びる竪堀によって分断されており、「一城別郭」の態をなしている。主郭は東側の最高地点にある曲輪であり、西側に土塁を備えてた虎口を配し、南側に土塁を構えて土塁の東側にある武者走りを通じて尾根筋の堡塁に至る。北西側に二段の曲輪が段状に配置されており、北から東側は断崖絶壁となって侵入は難しい。 竪堀を超えた西側には中心となる区画があり、その下の南北の尾根上に各々曲輪が配置されている。北側の曲輪の外周部には土塁を備えた帯曲輪があり、横堀のような形状をなしている。さらに西側に進むと尾根筋に二重の堀切と竪堀があり、その地点が城域の境界と考えられている。
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立地・構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 17:07 UTC 版)
吾妻郡東吾妻町岩下地区の吾妻川左岸に立地し、東側には岩櫃城を含む岩櫃山がある。吾妻川の対岸には三島根小屋城があり、共に岩櫃城の西方を防衛する上で重要な拠点である。 城郭の中心には南北に山を分断する巨大な大堀切があり、これにより東西に二つの曲輪群に分けられている。この構造は「一城別郭」といわれ、吾妻郡ではよくみられる構造であるという。 西側は大堀切に接した方形状の曲輪を主郭とし、主郭の西側の曲輪には秋葉神社が立地している。秋葉神社から南側には参道があり、これが当時の大手口とされる。北西方面には不整形で平坦な曲輪が段状にいくつか配置されており、城の居住区と推測される。築城当初はこの西側の曲輪群のみが存在し、次第に防衛強化のために大堀切の東側が拡張されたと推測されている。 東側は南北に延びる尾根の結節点に頂点となる曲輪を配置し、それを中心にいくつかの曲輪が配置されている。北側の尾根が三重の堀切で遮断し、南側の尾根には細長い曲輪が配置されている。
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立地・構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 16:47 UTC 版)
中之条町五反田に聳える嵩山の山上一帯に存在する。尾根筋に山道を配して各々の岩峰に曲輪を配置することで、岩壁を擁した堡塁を複数連立した構造を形成している。こうした構造は各々の曲輪の防御力が高いことから攻略が困難な一方で、各曲輪に大きな兵力を配置できず連携も困難であることから組織的な戦闘には向いてないとされる。 尾根筋に小天狗・中天狗・大天狗と呼ばれる岩峰が南西から北東に向けて並んでおり、その間に複数の曲輪が存在する。中天狗と大天狗の間の無常平と呼ばれる曲輪が本丸であり、その北東部に城内最大の長方形の曲輪が存在する。そのさらに北側に大天狗が存在し、岩壁に守られた詰めの曲輪となっている。本丸から中天狗の断崖を経て西側の曲輪群にたどり着き、小天狗まで複数の曲輪が段状に配置されている。曲輪群のうち最も低い曲輪の南側から大手口への山道が伸びており。南側の根古屋地区に至る。 大手口は南の山麓の親都神社の裏手に存在し、一の木戸を経て数段の曲輪群が構えられている。一の木戸と神社の間には人家があったと伝えられ、この地が城下の集落を形成していたと推測される。
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立地・構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 15:08 UTC 版)
甘楽郡の平野部に聳える神成山一帯に城郭が築かれている。神成山は東西に延びた形状をしており、中心の山地部分に神成城・東麓の地域に宮崎城・西端の岩山上に吾妻山の砦がある。
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立地・構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 17:08 UTC 版)
吾妻川が眼下に流れる羽根尾集落の後背の小山に城は位置している。 主郭は南北に長い長方形の形状をしており、全周に土塁が設置されている。北東の虎口から北側の尾根を経て搦手口に出られ、主郭すぐ北側に上幅15mの堀切がある。北側の尾根を進むと小さな池があり、城の水の手とされる。 主郭の南東部にも虎口があり、虎口の前に小さな馬出しがある。南側の堀切を超えると中心に土塁が備えられてある曲輪があり、その更に南にも南北に延びた曲輪がある。主郭とその南側の曲輪の西側には竪堀が一つずつある。城郭から南西の尾根に沿って降りると大手口に至り、海野長門守の墓と伝えられる場所がある。この辺りはお屋敷と言われており、当時は羽尾氏の館があったとされる。
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立地・構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 17:03 UTC 版)
温川と見城川が合流する大戸地区の中心部から東の城山に位置している。温川を下り東に抜ければ岩櫃城があり、温川を上り西の須賀尾峠を抜ければ長野原・草津へと至る要衝にある。 手子丸城は主に東西二つの曲輪群に分けられ、両者は中心の堀切を境に異なる構造をなしている。 西側は山頂部の主郭を頂点として主に北側に複数の曲輪が階段状に設けられ、その外側には北に延びる三つの尾根筋がある。各々の尾根には曲輪・堀切が配置され進入路を遮断しており、最東部の尾根筋が当初の大手口とみられる。西側の曲輪群から東も尾根が伸びており、東側との境界となる堀切に至る。 東側は東西に延びる尾根筋に各々の曲輪が配置されており、それらを堀切で分断させているのが特徴である。東側の主郭部分をはじめ、各々の曲輪には櫓台・横堀・土塁等が使用されており、最東部の尾根筋には二重の堀切がある。この二重の堀切が最も防御力が高く、後に大手を東側に移したと考えられている。 築城当初は西側の曲輪群のみがあったが、後に改修を経て東側に主郭を映し各々の曲輪を独立させて、各地に防衛施設を設けて増築していったと考えられる。
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立地・構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 16:46 UTC 版)
現在では久昌寺の本堂裏手に土塁と二重の堀が僅かに現存するのみであり、殆どの遺構が宅地化や墓地によって失われている。 大手口は南側にある現在の寺の入口あたりにあったとされ、現存する堀から一辺150m程度の方形状の城館であったようである。このような方形館は榎下城の他にも原市東館・茂木東・簗瀬・郷原等の周辺地区に点在しており、安中氏の一族・被官の居館であったと考えられている。
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立地・構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/30 13:37 UTC 版)
比企丘陵と岩殿丘陵に挟まれた東松山台地上にあり、城の南方1kmには都幾川が流れている。 構造は城の南端に一辺約100mの方形の本郭があり、それを取り囲むように北に二の郭・三の郭が広がる。城全体の規模は東西約700m、南北約400mであり、中世城郭としては巨大なものである。
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立地・構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/03 07:23 UTC 版)
熊本県天草市本渡町の連山の東端尾根に位置し、本丸や馬責め場、一の丸などの地名が残る。標高76mの最高点に本丸があり、三方から曲輪が取り囲む。本丸から南西および南東方向は、それぞれ堀切と幅7-8m・長さ100m以上の急な尾根となっていた。南東端の一の丸には城主や木山氏の墓、板碑などが残り、さらに下った二の丸には天草切支丹館が建てられている。
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立地・構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/13 21:26 UTC 版)
山鹿市山鹿字温泉の低丘陵に位置し、跡地には清滝神社や光専寺、圓頓寺などがある。東側には南北方向に堀切が設けられ、南の急崖の外側には大規模な空堀と土塁があった。西側と北側は崖となっている。大正時代に鹿本鉄道の引込線を敷設した際に東南の土塁を崩している。また、山鹿氏の居館は現在の光専寺境内にあったという。
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立地・構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 02:57 UTC 版)
「長峰池(ハカマ池)」・「サイカ池」および低湿地帯に周囲を囲まれた長峰と呼ばれる細長い小丘陵地を利用して築城された中世城郭跡を更に譜代大名の牧野氏が近世城郭として城下町をともなう平山城に改造・拡充している。 城の北部の「長峰池」や南部にあった「サイカ池」は外堀代わりの水堀の役割を果たしていたと考えられ、長峰の丘陵部の地形を利用して二重の周濠(空堀)・土塁・4個の楼台(うち3個は隅櫓)・大きな望楼台(通称「ひのみやぐら」)を備えた本丸とその西部にある「論手」・「北論手」と呼ぶ区画、また東側に空堀で本丸と仕切られた「おんまや」・東部の高みの「大屋敷」・「樋詰」と呼ぶ区画を配置した複郭構造が認められる。「大屋敷」・「樋詰」の東側に面した水田はかつて深田であって、これも城の東端を守る外堀の役目をした。 本丸に相当する「古城」地区の西方には武家屋敷があったと推定される小字名「北論手」・「論手」があり、それらの西端には「かなほり」と呼ばれる沢があり、「長峰池」の水の落ちる外堀の役目をしており、旧名「大手崎」(大手先の意か)と呼ばれこの付近が城の大手口であったと推定され、本丸の土塁も西側に2個の楼台(西南隅櫓と対の櫓)に挟むように守られた虎口(本丸正門)が開き、城は越後高田城方向を向いていたらしい。 搦め手は本丸の北西隅に腰曲輪を伴った隅櫓の東側に裏門を開き、裏門から城の北側の「長峰池」に突き出た岬「さんばヶ鼻」の根本に道が連なり船着き場があったと推定されている。また、東部の「大屋敷」とその南側の長峰集落の間を仕切るように空堀が存在した。
※この「立地・構造」の解説は、「長峰城」の解説の一部です。
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立地・構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/30 15:33 UTC 版)
佐賀県鹿島市の多良岳の北東にある山地東端の、鹿島川に面する丘陵上に位置した。外郭は南北650m・東西370mで、本丸は南側の高所にあり高津原屋敷や鹿島館と呼ばれた。現存する大手門と赤門は佐賀県重要文化財に指定されており、本丸南には武家屋敷も残っている。
※この「立地・構造」の解説は、「鹿島城 (肥前国)」の解説の一部です。
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立地・構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/31 03:52 UTC 版)
佐賀県鹿島市の、塩田川と鹿島川の間の沖積地に位置した。標高が1.5mと低く、有明海にも近いため水害が多発した。外周は土塁で囲まれ、その全長は893間余と記されている。
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