武家屋敷
武家屋敷
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「東北医科薬科大学病院」の記事における「武家屋敷」の解説
名掛丁は江戸時代、石巻街道(塩竈街道)が仙台城下町に入る道沿いにあり、組士が居住して警備していた(石巻街道は現在、国道45号に受け継がれている)。
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武家屋敷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 18:02 UTC 版)
武家屋敷の玄関は、門から石畳で玄関の式台につらなっている。玄関正面には舞良戸が嵌められていたが、武家屋敷の場合は必ずその横桟の横舞良子の幅を三センチ以上の太いものを、七本から九本くらいの粗さにして、重厚で厳格な表現をしている。 元来、舞良戸は舞良子の多いもの程高級とし、時には三十五本も入れたものがある。武家屋敷では、武威を示すため武骨なまでに太い舞良子を粗く配した。玄関内部の正面は、大きな屋敷では槍床が設けられたが、普通は全部を壁面とした。正面を壁で塞いだのは、屋内を見透かせず防御の意味をもっていた。 座敷の天井は高くして、畳の上には一切物を置かず、万一の場合には戦えるように備えていた。また、座敷の長押の上には鎗掛けが設けられ、さらに用心のために長押の裏側に、石つぶての小石が隠されたりした。 台所の、板の間や土間が、屋敷の大きさに比較して大きいのは、いざ出陣という時の、支度のための準備に使うためである。武士たるもの、常日頃の心がけと、いざという時の態勢が必要とされたものである。 歌舞伎の仮名手本忠臣蔵の九段目に、 「用心厳しき高師直、障子・襖は皆尻ざし(建具の一種の錠で、框の下に楔を打ち込んだもの)、雨戸に合栓合框(錠の一種)、こじて外れず、大槌にて毀(こわ)たば音して用意せんか、それいかが・・・」 とある。赤穂浪士は思案の末、太い丸竹に綱を弓状に張ったものを準備して、その両端を雨戸の敷居鴨居にあてがい、綱を切った。太い丸竹の戻りの力で敷居鴨居がゆるみ、雨戸が一斉に外れ、義士たちがどっと屋敷内に踏み込むという場面は有名である。 徳川幕府の高家の上席である吉良義央の屋敷は、大給家所伝の絵図によれば、東西三十四間二尺八寸余、南北七十三間三尺七寸、二千五百五十坪の敷地に、建坪八百四十六坪であった。 このような一万石から二万石に相当する、豪壮な用心深い武家屋敷の、頑丈な雨戸が、芝居のように簡単に外れたはずがない。 実際には、雨戸や障子を掛矢で打ち破る音が激しく、北隣の旗本の土屋主税の屋敷に聞こえたという。近世でも、武家屋敷となると、純粋な書院造りを基本としたやや武骨なまでも、重厚な造りであった。
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武家屋敷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/03/25 03:46 UTC 版)
石火矢町ふるさと村では旧武家屋敷二軒を高梁市が買収、復元整備し一般に公開している。入館料は大人400円で共通。 旧折井家 元は幕末に160石取りであった折井家の屋敷で、江戸時代に建てられた母屋と長屋門が残る。母屋は天保年間に建てられたとされる。中庭の池や庭石、踏み石などもほぼ昔のまま残されている。庭に面して資料館が設けられている。 旧埴原(はいばら)家 元は150石取りであった埴原家の屋敷。母屋は江戸時代中期から後期に建てられたとされる。建物に寺院建築風の装飾や数寄屋風の要素が見られるなど、当地の武家屋敷としては豪華なつくりであるのが特徴。市の重要文化財にも指定されている。同家離れの一階を利用し、幕末に備中松山藩で活躍した藩政改革者山田方谷にまつわる資料を展示する資料室が設けられている。
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