武家官位における親王任国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 03:39 UTC 版)
江戸時代の大名や旗本は、「諸大夫」の格式を得ると、幕府の許可を得た上、自ら選択した「~守」などの受領名を名乗ったが、上記の親王任国については、このような受領名の名乗りにおいても、(格下の)「~介」が使用された。しかし、江戸時代の武家官位上、受領名は、朝廷の正式な叙任を受けた形式をとるにせよ、いわば「名前」の扱いであり、律令制の官位相当における上下は、特段の意味を有していなかった。江戸時代の武家官位は、「諸大夫」の上に、「四品」、「侍従」、「少将」、「中将」、「参議」という階梯があり、こちらに意味があった。 例えば、赤穂事件で有名な吉良義央は、高家という高い家格を有しているため、当初から「四品」(四位)の位階にとどまらず、「侍従」の官位を得ており、後には「少将」に昇進しているが、受領名としては、(律令制の本来の意味からすれば格下の)「上野介」を選択している。 吉良義央は、官職上長官職である一等官「上野守」の代替として、名は次官級二等官であるが、実質上は長官職として(親王は赴任しないので)「上野介」で受領任官させたと推察される。義央が、他に受領任官した官職は「従四位下・侍従(:従五位下相当、場合により大納言(正三位)~少納言(従五位下)も侍従を兼務した例がある)兼上野介、従四位上・左近衛権少将(正五位下相当:場合により正二、三位程度相当職任官の場合あり)」である。その最高位は「従四位上」で、「上野守」はせいぜい「従五位上」である。義央が受領任官している「上野介」を単独でみると「正六位下」の格の官職であるが、吉良義央は「上野介」ほかに「侍従(従四位下)」や「左近衛権少将(従四位上)」も併任で受領任官しているため、持つ官職最高の「従四位上」の扱いになることから、「上野守」単独任官の官職より、合わせ技で2段階程度は上格の官職を受領任官されていることになる(官職として、単独受領した場合の「上野介」と比較して、この「合わせ技」は7~8段階ほど上格となる。)。なお、吉良家は旗本であるものの高家のため、大名家よりも格が高い官職を持っておかなければならない必要性があったと思われる(武士としての家格は大名家より旗本の方が格下である。)。[独自研究?]
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