居城
居館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 19:13 UTC 版)
八木には子字名「殿屋敷」という場所があり、1989年(平成元年)に一部発掘調査が行われた。それによると12世紀から14世紀の初頭にかけての中国製の青磁や鉢や土器が多数出土した。更に幅5.2m、深さ2.3m、長さ35mの掘削された堀跡が検出された。全貌は明らかになっていないが、殿屋敷、居館の防備施設だと思われている。15世紀の遺物が発見されていないことから、「戦国時代の殿屋敷がここではない可能性も高くなる」としている。戦国時代の居館跡は「永照寺と柳谷寺の付近に別所吉治の舘があると理想的」としている。その理由として近世城郭によく見られる八木石城の直登城ルートがあり、また城下町の中心に位置し、城下町の整備が居館を中心に進められていたと推定している。
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居館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 15:09 UTC 版)
史料等に鎌倉時代から残されている勝瑞城を明確にするため、地名の再検討、伝承の検討、明治時代初頭の地籍図、1945年(昭和20年)の米軍航空写真を使い、地割の復元をした結果、現在の本丸跡から南へ150mの地点に、東西約120m、南北約150mの方形区画が見つかった。その確認調査として藍住町教育委員会と徳島県教育委員会により1997年(平成9年) - 2000年(平成12年)まで発掘調査が行われ、濠幅約12mに囲まれた東西約120m、南北約150mであることが明確となった。この居館の構造、出土遺物の質、量から三好実休の居館跡と推定されている。本丸と呼ばれる「勝瑞城跡」と三好実休の居館跡は「勝瑞城館跡」として国の史跡に指定されている(2001年1月29日指定)。勝瑞城跡8568.38m2、勝瑞城館跡33246.96m2が指定範囲となった。また2004年(平成16年) - 2005年(平成17年)の発掘調査で、この居館から南方向に東西40m以上、南北30mの池跡が発掘された。発掘庭園としては、日本国内最大級の池庭となる。中央には岬があることから、池全体は「つ」の字のような形をしている。小さな石が州浜に敷き詰めてあり、護岸には石積みがされ、景色に演出がなされていた。 2000年(平成12年) - 2001年(平成13年)では勝瑞城館跡の東側を発掘調査行い、大規模な礎石建物跡が見つかり、館跡はこれより東側に広がる可能性が出てきた。2004年(平成16年)からは「室町ロマン勝瑞再生プロジェクト」が開始され、規模を拡大して発掘調査が行われることになった。2007年(平成19年)2月7日、館跡の東側部分8800m2が国の史跡に追加指定された。大規模な濠で区分けされた複数の曲輪からなる複郭式の館跡であると推定されている。
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居館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/03 22:26 UTC 版)
藩主の居館は本丸にあり3階建ての立派な建物で、部屋には名前や画風から長谷川等伯の弟子と考えられる長谷川等仁の手になる、襖絵「花鳥山水図」が飾られていた。現存するのは、晩冬から春の前兆を描いた二曲屏風六隻・全12面だが、本来は夏から秋にかけての花鳥山水図が対で存在し、四季花鳥図を構成していたものと推定される。この居館は1631年(寛永8年)に失火し焼失してしまったが、襖絵の一部は遺物として残り、大坂の蔵屋敷に運び出されて幕末まで伝えられた。この時までは六曲一双の屏風絵だったが、明治になって12幅の掛軸に、さらに現状と同じように改装された。その後、1959年(昭和34年)に右から2番目から4番目に当たる三隻が売りに出され、2,3番目はアメリカ人、4番目はフランス人外交官の手に渡った。その3年後フリーア美術館が残り三隻を入手した。1996年(平成8年)サザビーズにアメリカ人から電話があり、これを受けてサザビーズがフランスにある物も突き止めて、三隻揃ってオークションにかけられた。これが日本人コレクターに競り落とされて里帰りし、現在は愛媛県美術館に寄託されている。
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居館
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居館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/24 09:59 UTC 版)
大内氏の大内氏館・築山館(現・山口県山口市)。防御拠点として凌雲寺や高嶺城などを設けている。
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居館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 16:19 UTC 版)
現在の周南市鹿野にある本生山龍雲寺の境内に江良氏居館跡があり、かつては堀・土塁・櫓などの城郭構造を備えていたとされる。陶弘長が長門国守護代に任じられた時に江良広慶が小守護代(守護代の代理)となった後、江良賢宣まで同居館が使われていた(『長門国守護代記』)。
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