正保城絵図とは? わかりやすく解説

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正保城絵図

主名称: 正保城絵図
指定番号 30
枝番 0
指定年月日 1986.06.06(昭和61.06.06)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 歴史資料
ト書
員数 63
時代区分 江戸
年代
検索年代
解説文: 江戸幕府は、正保元年一六四四十二月二十五日諸国城郭実態把握するために国絵図郷帳とともに城絵図提出各藩命じた。これに応じて各藩献上したものが、もと江戸城内の紅葉山文庫伝来し、現在内閣文庫保管になる城絵図である。
 本図体裁は折仕立装で、一城一鋪に収め法量東西南北ともおよそ三~四メートル程である。料紙には厚手間似合紙用い、著色をもって描かれている。折り畳んだ際の仮表紙には原則として城名城主名等を書き、その上方に小字で「改一」、大字で「三」のように朱筆整理番号がある。
 図を広げると、その多くには城名提出され時の城主名の墨書が隅にあり、城郭外観・構造精細に描くほか、本丸等の間数井戸所在場所、石垣の高さや堀の深さなどの注記存している。城郭周辺では、城下町割明示し、その中の町名や社寺名等も書入れ、海や川にも水深注記がある。また、城より高地の山、丘陵などについてはその数値差を記している。
 六十三鋪のうち、他図と異なり徳島城之図には「正保三〈丙 / 戍〉年十一月朔日松平阿波守」と本図提出年紀がみえ、小田原城絵図間数注記等は金泥をもって記されている。また、山形城絵図の裏面には八ケからなる書付注記貼付され幕府絵図不備指摘したのである。さらに、丸亀城絵図は、著色を施さず、間数注記等もすべて貼紙書かれ提出時には築城途中であったことが判明する
 これらの城絵図は、江戸時代前期における各大名城の配置城下町状況詳しく記載し近世城郭研究上の根本史料として貴重である。

正保城絵図

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/14 08:52 UTC 版)

正保城絵図 (しょうほうしろえず)は、17世紀半ばに徳川幕府が各地の城持ち大名に命じて提出させた、統一的な描写の城絵図である[1]


  1. ^ 千田嘉博 2001, p. 4.
  2. ^ 千田嘉博 2001, p. 6.
  3. ^ 千田嘉博 2001, p. 10-108.
  4. ^ 油浅(2004).
  5. ^ a b 千田嘉博 2001, p. 7.
  6. ^ 小林茂, 佐伯弘次「近世の福岡・博多市街絵図--公用図について」『歴史学・地理学年報』第16号、九州大学教養部、1992年、p25-61、ISSN 03857611NAID 40004146633 
  7. ^ a b 正保城絵図1986年〈昭和61年〉6月6日指定、重要文化財(美術工芸品))、国指定文化財等データベース文化庁) 2014年9月17日閲覧。
  8. ^ 油浅(2005).
  9. ^ 千田嘉博 2001, p. 6-7.
  10. ^ 『内閣文庫国書分類目録』下(内閣文庫、昭和36年)pp.708-709。
  11. ^ 昭和61年6月6日文部省告示第88号
  12. ^ 油浅耕三「流出した旧紅葉山文庫蔵会津・仙台・高田の正保城絵図についての一考察」『日本建築学会計画系論文報告集』第377巻、1987年、119-128頁、doi:10.3130/aijax.377.0_119 
  13. ^ 西田博「正保期の城目録をめぐって」『歴史を歩く時代を歩く:服部英雄教授退職記念誌』(九州大学大学院比較社会文化研究院服部英雄研究室、2015年)。
  14. ^ 「道程帳」という呼称を用いる研究者もいる。享保11年(1726年)の城内火災により道帳ほかを焼失した佐賀藩が、幕府に道帳の貸与を願い出た際に用いたのは「道程帳」であった(川村博忠『江戸幕府の日本地図 国絵図・城絵図・日本図』、吉川弘文館、2010年、p.86)。しかし江戸後期の書物奉行、近藤正齋(近藤重蔵)は、「諸国海陸の道筋および古城等の書付」と書き表しており、江戸後期においても呼称の定着をみなかったことが窺える(近藤正齋「好書故事」巻第二十八『近藤正齋全集』第三、国書刊行会、1906年、p.114)。なお、表題の末尾にみられる「道規帳」・「道程帳」・「道度之帳」のすべてに共通する読みは「みちのりのちょう」である。
  15. ^ 道帳は国絵図事業の中途においてその提出が命じられたのではないかと推測されている(川村博忠『江戸幕府撰国絵図の研究』、古今書院、1984年、p.161)。記録が残る加賀藩の場合、道帳の作成が命じられたのは、正保3年8月であった(国絵図研究会『国絵図の世界』、柏書房、2005年、p.171)。
  16. ^ 川村博忠『江戸幕府撰国絵図の研究』(古今書院、1984年)p.162。
  17. ^ 福井敏隆「〈史料紹介〉慶安二年八月五日成立の「大道筋(奥州之内南部領海陸道規帳)」(岩手県立図書館蔵)」『弘前大学国史研究』七八(弘前大学、1985年)p.47。
  18. ^ 『広漢和辞典』には「きがた」・「ボッケイ」の二通りの読みが記されるが、「木がたの絵図」という用例(『新熊本市史 史料編 第三巻近世Ⅰ』p.190)から、慣用読みは「きがた」と推定される。
  19. ^ 『広漢和辞典』
  20. ^ a b 近藤正齋「好書故事」巻第二十八『近藤正齋全集』第三(国書刊行会、1906年)p.114。
  21. ^ 「年譜」正保四年条『山鹿素行全集思想編 第十五巻』(岩波書店、1941年)p.24。


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