三好実休
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/14 01:39 UTC 版)
三好 実休(みよし じっきゅう、旧字体:三好 實休)は、戦国時代の武将。三好氏の家臣。三好元長の次男。
- ^ 『東寺百合文書』“ホ函/93/:三好之相書状”. 京都府立京都学・歴彩館. 2017年5月20日閲覧。
- ^ a b 天文8年10月に白峯寺に出された禁制は「彦次郎之相」の名で出されている。
岡田唯吉 編「細川持隆白峰廟崇敬の制札を發す 持隆臣、三好之相制札」『崇徳院と讃岐』鎌田共済会、1938年。全国書誌番号:46060120 。 - ^ 安宅冬康が顕本寺に宛てた『顕本寺文書』「安宅冬康判物」など。
小杉榲邨 編「和泉國堺津顯本寺所藏文書」『阿波国徴古雑抄』日本歴史地理学会、1913年。全国書誌番号:43017505 。 - ^ 天野(2014)・141頁
- ^ 天野忠幸「三好一族の人名比定について」(初出:天野『戦国期三好政権の研究(初版))』(清文堂、2010年)/改訂所収:天野『増補版 戦国期三好政権の研究』(清文堂、2015年) ISBN 978-4-7924-1039-1)
- ^ a b c 天野(2014)・142頁
- ^ 天野(2014)・142頁。長慶嫡男・三好義興が名前に「義」の字を入れるのは義輝との和睦後。
- ^ 秋里籬島 編「妙國寺」『和泉名所図会』 2巻、高橋平助[ほか4名]、1796年 。など。
- ^ 『見性寺文書』「三好千熊丸・千満丸寄進状」、藍住町「藍住町の文化財20」(PDF)『広報あいずみ』第839号、徳島県藍住町企画政策課、2013年12月25日、18頁、2017年5月26日閲覧。
- ^ 『南海通記』8巻 「細川晴元討豫州記」によると、両細川の乱以降、河野氏は大内義興に服属し阿波細川家と対立していたが、義興の死後、大内義隆が妹を細川持隆に嫁がせて和睦したため、梯子を外された格好になった。そこで細川晴元が河野征伐の号令をかけ、持隆や実休がこれに従い伊予に侵攻したが、河野氏は大友義鑑と同盟し援軍を募ったため、兵乱が九州に飛び火して泥沼化することを危惧した持隆は兵を引いた。
- ^ 高橋敏子. “東京大学史料編纂所報第51号(2015年)大日本古文書 家わけ第十 東寺文書之十七”. 2017年6月4日閲覧。
- ^ 長江・131頁
- ^ 享年37とも(『妙国寺過去帳』『妙泉寺墓碑銘』)『三好長慶』〈人物叢書〉207頁。
- ^ 大月ひさ「英雄の片影」、今谷・240頁
- ^ a b c d 誰も書かなかった戦国武将96人の真実・170頁
- ^ a b 千宗室「堺と茶道」
- ^ a b c 長江・251頁
- ^ a b 誰も書かなかった戦国武将96人の真実・171頁
- ^ a b 村井・112頁
- ^ a b 天野(2014)・144頁
- ^ 山上宗二 編「大壷の次第 三日月」『宗二之記』 。
- ^ 長江・253頁
- ^ 若松・48頁
- ^ 天野(2014)・144頁、若松・48頁
- ^ a b 天野(2014)・145頁
- ^ 天野忠幸「戦国畿内研究の再構成と『細川両家記』」(PDF)『都市文化研究 Studies in Urban Cultures』第12巻、大阪市立大学大学院文学研究科都市文化研究センター、2010年、165頁、2017年6月11日閲覧“その結果,人名比定ができた事例として,三好遠江守(長家)・加地丹波守(為利)・市原(胤吉)・森飛騨守(長秀)・三好伊賀守(連盛)・三好備中守(盛政)・畑地権介(久勝)などがいる。”
- ^ a b “キ函/251/ 三好康長等連署折紙案”. 2017年6月11日閲覧。
- ^ a b “イ函/141/ 三好康長等連署書状案”. 2017年6月11日閲覧。
[続きの解説]
- 三好実休のページへのリンク