三好義賢(みよし よしかた) 1527?~1562
◇父:三好元長 室:細川持隆妻(岡本美濃守女) 子:三好長治、十河存保
阿波・三好氏一族。兄長慶をよく補佐し、1547年には摂津・舎利寺にて河内守護代・遊佐長教に大勝する活躍を見せる。長慶が畿内に進出した後の阿波を守り,また弟一存が和泉・岸和田城主となってからは讃岐も支配した。1553年には、足利義冬を将軍に擁立しようとした主筋細川持隆を暗殺、その子真之を擁立して実権を掌握する。後、長慶に応じて四国の兵を率いて、畿内に入り、河内・高屋城主畠山高政を敗走させると、同城を本拠として河内の支配を任された。しかし、和泉・久米田で高政、根来寺衆徒らとの戦いの中、鉄砲の流れ弾にあたり戦死した(記録上日本初の鉄砲による死亡武将か)。尚、三好氏の分国法「新加制式」は、重臣篠原長房が義賢の治政を基に制定したものであり、内治に優れた手腕を見せた一方、武野紹鶴・千利休ら一流の茶人に学び、茶を通して堺と親密な関係を築いた。
三好実休
三好義賢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 06:54 UTC 版)
『三好記』『阿州足利平島傳来記』『平島殿先祖並細川家三好家覚書』『阿州古戰記』などでは諱をよしかた(義賢、義形)としている。 しかし、福島克彦らの調査によるとこの名は一次資料では確認されておらず、天野は十河存保の別名で自署も残っている「三好義堅」(十河義堅)が後世に混同されたものとしている。また、天野の話によれば室町幕府将軍・足利義輝と対立していた時期の三好氏が、足利氏の通字の「義」の字を名乗るとは考えづらいとも指摘する。 『古城諸将記』では三好豊前守義賢は長慶の子で足利義輝を殺したとし、『三好別記』でも三好義堅は長慶の次男で若江城で自害したとしており、実休の甥(十河存保からは従兄弟)の三好義継との混同がある。
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