三好元長(みよし もとなが) 1501~1532
○彦四郎 長基 海雲 弾正少弼 筑前守
◇父:三好筑前守之長? 養父:三好長秀? 子:三好長慶、勝長、義賢、安宅冬康、十河一存、野口冬長
阿波・三好氏一族。三好之長末子にて長兄長秀の養子というが確証はない。1526年管領細川晴元を擁して阿波から挙兵し、細川高国・足利義晴を近江に逐うと、足利義維を擁して、堺に“四條御所”と呼ばれる幕府を設立させた。さらに、摂津、山城守護代として京都を支配するが、1529年柳本賢治らと争い阿波に戻る。しかし、高国の反撃に遭った晴元に助けを求められ、堺に入り、摂津で高国を敗死させた。これにより堺に幕府を復帰させたが、今度は晴元と争うようになり、一族三好政長や一向一揆を味方につけた晴元に攻められ、堺にて敗れて自害。
◇父:三好筑前守之長? 養父:三好長秀? 子:三好長慶、勝長、義賢、安宅冬康、十河一存、野口冬長
阿波・三好氏一族。三好之長末子にて長兄長秀の養子というが確証はない。1526年管領細川晴元を擁して阿波から挙兵し、細川高国・足利義晴を近江に逐うと、足利義維を擁して、堺に“四條御所”と呼ばれる幕府を設立させた。さらに、摂津、山城守護代として京都を支配するが、1529年柳本賢治らと争い阿波に戻る。しかし、高国の反撃に遭った晴元に助けを求められ、堺に入り、摂津で高国を敗死させた。これにより堺に幕府を復帰させたが、今度は晴元と争うようになり、一族三好政長や一向一揆を味方につけた晴元に攻められ、堺にて敗れて自害。
三好元長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/07 07:14 UTC 版)
三好 元長(みよし もとなが)は、戦国時代の阿波国の武将。細川晴元(六郎)に仕え、その偏諱を与えられて元長と名乗る。
注釈
- ^ 戒名は慶春院殿南岸智英大姉。
出典
- ^ 長江 1989, pp. 35–46.
- ^ 今谷 2007, pp. 75–93.
- ^ 福島 2009, pp. 71–74.
- ^ 長江 1989, pp. 47–55.
- ^ 今谷 2007, pp. 93–104.
- ^ 福島 2009, pp. 74–76.
- ^ 長江 1989, pp. 55–58.
- ^ 今谷 2007, pp. 105–108.
- ^ 福島 2009, pp. 76–80.
- ^ 長江 1989, pp. 58–59.
- ^ 今谷 2007, pp. 109–111.
- ^ 福島 2009, pp. 80–82.
- ^ 『堺鑑』(続々群書類従第8地理部 明治39年8月25日発行 p.635)
[続きの解説]
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