主君との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 00:33 UTC 版)
仇敵・細川高国の討滅という目標を達成した堺公方派ではあったが、その内部では以後の方針を巡って不協和音が生じだした。現職の足利義晴から将軍職を剥奪し、自分達が擁する足利義維を新将軍に据えさえすれば、細川六郎の堺幕府は公認されるという中で主君の六郎があろうことか松井宗信の勧めによって義晴との和睦を推し進めようとしたのである。 堺幕府の放棄にも等しい細川六郎の決断には、河内国の畠山義堯(六郎の義兄弟)と共に反対したが、聞き容れてもらえなかったばかりか、かえって大きな溝をつくってしまう。これまでの功績が災いしたのか、六郎からはその存在を危険視されてゆく。しかも、六郎の配下としての有望な地位を狙う木沢長政や、元長の失脚を願う一門で従叔父の三好政長(宗三)らの動きもあって、その溝は一段と深まった。 更に元長自身も失策を犯していた。京都三条城に籠もっていた柳本甚次郎(かつて対立していた賢治の子)を、享禄5年(1532年)1月22日に阿波軍を率いて討滅させてしまうと、細川六郎の怒りを恐れて出家、海雲と号した。阿波守護・細川持隆(六郎の従弟)による、六郎との関係修復の執り成しも成功せず、主従関係を一段と悪化させた。 やがて、木沢長政の存在で立場を悪くしていった元長は、同じく木沢長政の下克上を警戒する畠山義堯(長政の主筋)と結託。義堯による上意討ちを支援する形で、同年8月には長政の居城・飯盛山城を攻囲した。 細川高国討滅から僅か2ヶ月という堺公方派の内輪揉めであったが、木沢長政を擁護しようとする細川六郎からの撤兵要請もあって、元長は1度は兵を退いた。しかし、長政の野心を危険視する畠山義堯は、享禄5年(1532年)5月、飯盛山城を再攻囲。元長も遅れて支援に加わった。この時も主筋の細川六郎が長政を擁護する姿勢を見せていたが、それにも構わず飯盛山城の包囲し続けた為、木沢長政は不利な状況に陥った。
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