城郭構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/06 15:37 UTC 版)
城は根ノ谷川の東岸に築かれ、1郭から南西に延びる尾根に沿って、4つの郭と北側に1つの郭を備えている。西側には3本の堀切を配置して防御線とし、1郭東側は東から延びてくる尾根を2本の堀切で遮断し、根ノ谷川を天然の堀としている。1郭の東北端には井戸の痕跡があり、1郭南西下の郭には全長20メートル、高さ1.1メートル-1.5メートル程度の石垣も備えていた。 城跡は1951年(昭和26年)に県の史跡となっていたが、1970年(昭和45年)の追加指定と名称変更により、高松城・土居屋敷・菩提所観音寺跡とあわせて「熊谷氏の遺跡」として一括された。
※この「城郭構造」の解説は、「伊勢ヶ坪城」の解説の一部です。
「城郭構造」を含む「伊勢ヶ坪城」の記事については、「伊勢ヶ坪城」の概要を参照ください。
城郭構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/06 16:38 UTC 版)
城山は、紡錘形をした、急峻で高さのある山である。高松山の標高は339メートル。頂上からは、南方に安芸香川氏の八木城、玖村氏の恵下山城、はるかに安芸武田氏の佐東銀山城を望む事ができる。城跡には井戸跡や馬場跡、石垣がわずかに残っており、本丸の土塁跡などが確認できる。前方には川が外堀として流れており、山自体もかなり急峻な典型的な山城である。 城跡は1951年(昭和26年)4月6日に広島県の史跡に指定されたが、1970年(昭和45年)1月30日の追加指定と名称変更により、伊勢が坪城・土居屋敷・菩提所観音寺跡とあわせて「熊谷氏の遺跡」として一括された。 現在の高松山では、毎年5月末の土日に山腹に大文字を点火、献灯する行事が行われている。これは、山頂にある愛宕神社の春祭りの一端として行われている。この可部の地は京都のように山と川に囲まれた盆地のようであり、この可部の大文字焼きは京都の「大文字」(五山の送り火)を真似たものと言われている。
※この「城郭構造」の解説は、「三入高松城」の解説の一部です。
「城郭構造」を含む「三入高松城」の記事については、「三入高松城」の概要を参照ください。
- 城郭構造のページへのリンク