城郭遺構詳細
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 01:52 UTC 版)
概要でも少し触れているが、椿井城の一番の特徴は北部と南部で築城プランに相違のある点である。それが築城年代の相違及び築城主の違いにあるのか、山稜の地形及び街道等の周辺環境による物かは現在推測の域を出ていない。おおよそ南北に連なる一本の尾根上に郭が並ぶ山城遺構ではあるが、北部と南部の中間点である鞍部には人の手の加わった遺構らしき物があるものの城郭遺構との判断が難しい為北部と南部の連絡性は明確で無く、相反する様に南北の遮断も明確では無い。形態的に「別城一郭」の様相を呈しており、従来言われている様に南北郭群や、南群、北群と呼ぶよりは北城、南城と呼ぶ方が正しいと思われる。但し、中間地点にある鞍部には西の平群谷椿井郷より北東の白石畑を経由して斑鳩及び松尾寺方面に抜ける街道が通っていたと考えられ、関所的な検門所が南北両城に挟まれる形で存在した可能性も考えられる。 南城は南北に3枚の郭と2本の堀切にて構成されるが、主に急峻な切岸に頼るだけの構造である。南の堀切は城域内外を遮断する位置にあるが、進入路としての土橋を有する。中央部の堀切は南の副郭と北の主郭の間にあって両郭を遮断するが南北それぞれへの通路は存在せず城内ルートとしての活用は無かったと思われる。中央部の堀切の方が広く郭面との比高差も大きく立派であり西側に道の様な遺構が続いているが、堀切内には障壁が存在しており堀切が西側の道に繋がっていたとは考えにくい。西側への道は途中で確認できなくなるが、西麓にある椿井春日神社への道が登城道として繋がっていた事を想像させる。 椿井春日神社方面西麓より登城道を来た者は障壁の為中央堀切内を通らず副郭西のステップより一旦副郭に入り、南の副郭北東隅より主郭東斜面の通路状虎口へ架かる木橋にて主郭へ至ったと思われる。 主郭は中央部の郭で南城中一番の比高と広さを誇り東側斜面には石積及び竪掘状の溝が一本確認でき、西側斜面は非常に急峻で敵を寄付けない地形である。土塁は一本だけであるが、南の堀切及び東斜面の虎口防御用として南東側にある。 南にある副郭は、堀切土橋から続く虎口を2本の土塁で防御し土橋を斜めに南東から北西に掛ける事によって西側土塁を障壁として一折れさせる工夫がされている。 南城にある土塁は全て虎口防御及び南方警戒の為であり、東西斜面にはまったく存在しない。これが北城との大きな相違点となる。 北城は南城よりも規模が大きく構造は複雑である。堀切は全部で3本、東西南北に幾重にも郭を並べ、西側には帯郭群による駐屯地、東側には土塁、塹壕としての機能を兼ね備えた横堀を持つ。更に東側の斜面には竪掘状の溝が数本確認できるが、判断が難しく竪掘であるかないかは今後の調査に期待したい。 主郭は東側に土塁のある最高所の郭で、規模的に見て戦闘指揮所程の物であったと考えられる。 副郭は一段低い虎口受け郭を挟んだ主郭と同じく東側に土塁を持った大きな郭で何らかの建物が存在した可能性のある郭である。中間にある一段低い虎口受け郭には、竪土塁で空間を制限された虎口が西側に開口している。 北城に於いて何より注目すべきは、東西両側での構造の違いである。西側に広がる帯郭群は単純に切岸だけの防御に頼る構造であり、土塁も無く工夫はあまり見られない。西の平群谷よりの比高と急峻な地形も無視はできないが、防御正面とはあまり考えられず駐屯地として利用されていたと考えられる。一変、東側は複雑な構造を呈する。まず北城の郭にある土塁は全て東側を向いており、北の堀切の東延長線上には西側に無い土塁に遮蔽された横堀が有って、東の谷に対する射線を構築する塹壕としての機能も兼ねていたと思われる。又、一番北に有る郭と1本堀切を挟んだ主郭、そして大きな虎口受けを挟んだ副郭に至るまでの100m程の尾根上は緩く西側に弧を描き塁線がカーブする為、横堀を突破し斜面を攻め上がる東からの敵に対しそれぞれの郭より横矢を射掛ける工夫がされている。この様な東側の構造的な工夫は、東の谷との比高差が小さいという弱点を補う為の物か、若しくは東の谷沿いにあったと考えられる白石畑への街道を意識した物なのか判断が難しいところではあるが、北城の防御正面が東側にあった事は疑いの無いものと考えられている。 遮断性も見事に徹底されており、南北堀切で囲まれた主郭周辺の中心部及び西駐屯地郭群が一つの区画となり、その区画内での移動は容易に可能であるが、それ以外の郭(区画)とは堀切や切岸にて完全に遮断され、現在に於いては移動する為のルートを地表面に見出す事は不可能である。恐らく作事に於いてルートが付けられていたと考えるべきであろう。純粋に戦闘意識に特化した縄張であると考えられる。戦う城である。 以上、城の規模、敵対正面、城の詳細な構造等から、信貴山城の松永久秀に対峙する形で椿井城が造られたと言う説は遺構の検証から見て考えにくく、むしろ北城に関しては松永氏が築城、若しくは改修し東の筒井勢に備えたと見るべきであろう。椿井城に於ける嶋左近(島清興)の信貴山城対峙説は、最新の研究によって疑わしいとの声が多い。
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