町人町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 01:28 UTC 版)
日光街道に面した町を「通町」と呼び、他は「脇町」と呼んだ。また町の発展に伴い、本町とされた通町・脇町から枝町が派生した。享保12年(1727年)の文書による町全体の構成 と、各町の由来・特徴等を示す。 通町: 下記4ヵ町。宿泊施設である旅籠と茶屋が集中していた。横町(よこまち): 江戸時代の初期は、二丁目から街道を北上・左折した先の二丁目曲の手を「横町」と呼び、さらに右折して本成寺に至る町通りを「野木町」と呼んでいたが、のちに野木町が横町と呼ばれるようになった。本来の「横町」は街道筋が一旦、横にずれる町の意であろう。寛永期(1624年~1645年)の絵図では「野木町」とされた町通りが、慶応年間(1865年~1868年)には「横町」になっている。明治期に横山町と改称されている。 一丁目・二丁目(いっちょうめ・にちょうめ): 町の中心部を一丁目と二丁目に分けたもの。特に二丁目は大きな商家が多く、江戸時代後期には城下最大の豪商だった八百屋(丸山)儀左衛門もここにあった。丸山家は当初の商売だった八百屋を屋号としたが、次第に手を広げ、旧藩主・堀田正仲の転封先・ 山形藩の特産品である紅花を扱うことで財をなした。本陣や高札場も二丁目にあった。 台町(だいまち): 原町が出来る前は城下の台であったことに由来。 原町(はらまち): もとは「原村」だったが、城主が土井利勝のころ町になり、城下の拡張に伴い編入された。 脇町・街道東側鍛冶町(かじまち): 城出入りの鍛冶職人が居た。江戸時代初期、奥平忠昌が城主の頃、野木神社周辺の鍛冶屋21戸を移転・集住させた。古河は冬季に西風が強くなるため、火を扱う鍛冶屋は、火災対策として東はずれの風下に配置された。のちの江戸時代中期には職人は転出し、商家が並び建つようになる。 ここにあった商家のうち、今城商店(みらい蔵)については後述。その隣には「竹駒稲荷神社」(後述)がある。 新町(北新町・南新町)(きたしんまち・みなみしんまち): 家数が増えたため、街道の東側に新しい町通りが自然に形成されたもの。宝暦年間(1751年~1763年)に北新町と南新町に分離したと考えられる。 八幡町(やわたまち): 八幡宮があることに由来。 天保2年(1831年)開業の青木酒造がある。 脇町・街道西側石町(こくちょう): 米穀商が軒を連ねていた。「穀」が「石」に転じたもの。明治中期には14件の米穀問屋が残っていた。 江戸時代からの金物商・八百藤(昭和37年/1962年閉業)もここにあり、近代には関東はもとより東北・北海道にまで農具を出荷していた。 江戸町(えどまち): 大きな商家が連なり、城下で最も賑わう町通りだったため、江戸を思わせるとされた。 ここにあった商家のうち「作家・永井路子旧宅」については後述。 大工町(だいくちょう): 城出入りの大工職人が居た。江戸時代中期には職人は転出し、商家が並び建つようになった。 このうち「坂長」については後述。 脇町・川沿い悪戸新田(あくとしんでん): 慶長・元和年間(1596年~1624年)に古河町の人々により開拓。地名のアクトはアクツ・アクドと同様に卑湿の地を示しており、東日本の随所で見られる。 船渡町(ふなとまち): 船渡河岸があり、河岸問屋・井上平兵衛家を筆頭に船主・筏師が集まっていた。思川・渡良瀬川・ 利根川の結節点であるため、古河藩内の穀類等はもとより、 下野国各地から江戸への物資も高瀬舟で運ばれ集積された。また江戸から北関東の農家向けには、肥料や生活必需品が運び込まれて流通拠点となっていた。 枝町紺屋町(こんやまち): 横町の枝町。城出入りの紺屋職人が居た。大正期まで「大紺屋」と呼ばれた日野屋があり、旧古河市役所(現在の古河テクノビジネス専門学校)の敷地はその乾場だった。 天神町(てんじんちょう): 横町の枝町(のち武家地に編入)。地福院にあった天満宮に由来。 なお地福院は明治初期に廃寺。 田町(たまち): 江戸町の枝町。低地で田圃があったことに由来すると考えられている。 青物町: 一丁目の枝町。青物の卸売商・八百屋四郎兵衛があった。 七軒町(しちけんちょう): 新町の枝町。家が七軒あったことに由来すると考えられている。明治期以降に家数が増えた。 肴町(さかなまち): 一丁目の枝町。 元肴町(本肴町)(もとさかなまち): 二丁目の枝町。 四谷・嵯峨: 石町の枝町。
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