廃藩置県
廃藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/05 11:50 UTC 版)
慶長14年(1609年)5月11日、一忠は20歳で急死した。一忠には3人の子供がいたが、領国の継承は認められず、中村氏は改易となった。 翌慶長15年(1610年)7月19日、美濃黒野藩主・加藤貞泰が2万石の加増を受け、6万石で米子に入部する。貞泰は大坂の役において軍功を挙げたことから、元和3年(1617年)に伊予大洲藩に移され、米子藩は廃藩となった。
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廃藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 07:20 UTC 版)
康英は慶応4年(1868年)、新政府に帰順することで藩論をまとめ、老中を辞すると上洛するが、新政府に近江国の飛地領2万石を没収され、謹慎処分とされた。それでも川越城の堀を埋め、官軍にひたすら恭順することで、川越の戦火を回避することに成功した。川越藩は上野戦争から離脱した彰義隊分派の振武軍を、能仁寺の戦い(飯能戦争)で掃討した。明治2年(1869年)、康英は所領を守ろうと、家督を養子の康載に譲り隠居した。康載はただちに版籍奉還を願い出、わずか16日間の藩主であった。康載は知藩事となり、明治4年(1871年)廃藩置県を迎え、川越県となった。以後、県庁が置かれた入間県・熊谷県を経て埼玉県に編入された。なお、廃藩後に松井松平家は松平の名字を廃して松井に復姓した。その後、明治12年(1879年)に康載は康英の実子康義に家督を譲って松井家を離籍し、康義は明治17年(1884年)に子爵を授けられた。一方、康載は明治19年(1886年)に今度は旧安中藩板倉家へ養子入りして板倉勝観と名乗り、同家で子爵を授けられた。
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