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淀殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/31 16:07 UTC 版)
『伝 淀殿画像』(部分、奈良県立美術館所蔵
淀殿(よどどの、永禄12年(1569年)[1][2] - 慶長20年5月8日(1615年6月4日))は、戦国時代(室町時代末期)から江戸時代初頭の女性。豊臣秀吉(羽柴秀吉)の側室[3]。 位階は従五位下とされるが、諸説あり。本名は 浅井 茶々(あざい ちゃちゃ)および浅井 菊子(あざい きくこ)。浅井三姉妹の一人
- ^ 生年については、浅井家の記録である『浅井三代記』に茶々の誕生に関する記述が全くないため、長らく永禄10年(1567年)と推測されてきたが、近年では永禄12年(1569年)誕生説が有力になっている。また、永禄9年(1566年)生まれの説もある。
- ^ 江戸時代に書かれた『翁草』に、茶々が慶長20年(1615年)の大坂の夏の陣で死亡した時49歳だったと記され、母の市が長政に嫁いだのが永禄10年頃とされているため、市の連れ子で長政以前に嫁いだ時に産まれたという説がある。また市を信長の妹ではなく従妹とする資料もあるため、茶々は信長と市の娘とする説もある。また、淀殿の兄と言われる浅井万福丸が市の子であるかどうか明記した史料はない。
- ^ この時代の史料で、淀殿を側室または愛妾などと記述するものは存在せず、秀吉没後、秀吉の正室高台院と共に「両御台所」と記した史料(『佐竹古文書』一四五)が存在する(福田千鶴『淀殿 — われ太閤の妻となりて』p.5,p.6,p.165,p.166)。
- ^ 『浅井氏家譜大成』によると、永禄10年以前は信長と長政は面識が全くなかったとある。これが茶々の永禄9年生まれの説に基づいている。また浅井家の菩提寺である徳勝寺には、三姉妹の内、淀殿の位牌のみない。
- ^ 妹の江と豊臣秀勝の間の娘で、姪にあたる。
- ^ 秀吉の直接的な庇護を受ける前、三姉妹は前田家の越前府中城に保護されていたとも、長政の長姉・昌安見久尼により北近江の実宰院で保護されていたともいう。実宰院に保護されたのは小谷落城後とも北庄落城後とも言われているが、昌庵尼は後に姉妹を保護した恩賞に秀吉から知行を賜っている。
- ^ 現在残っている淀城の遺構は江戸時代に再建された淀城跡である。
- ^ 当時の武家社会に於いて現当主の生母は優遇されるためである、また通説では秀吉の正室高台院とは確執があったと言われるが、近年の研究によって豊臣家存続という共通の目的のもと助け合っていたとされる。詳細は高台院#淀殿との関係の項目を参照。
- ^ 薩摩に落ち延びた説と秋元長朝に助けられ、長朝の領地上野国総社に落ち延びた説がある。秋元家の菩提寺に元景寺(現前橋市)に彼女のものといわれる石塔がある。
- ^ 『浅井系統一覧』による。
- ^ 桑田忠親は『淀君』で「『淀君』などとは、江戸時代の呼称」としている。
- ^ 小和田『戦国三姉妹物語』(角川選書)p.75、田中貴子『あやかし考』平凡社
- ^ 福田千鶴『淀殿 — われ太閤の妻となりて』p.4。
- ^ (『御当家紀年録 訳注日本史料』(児玉幸多編、集英社、1998年(平成10年))、成立は1664年(寛文4年))に「長政女、号淀」(長政の女[=娘]、淀と号す)との割注があり、江戸前期の記録「御当家紀年録」に、呼び名が「淀」であったとの認識が示されている。
- ^ 『淀殿 — われ太閤の妻となりて』p.1-p.24。
- ^ 辻ミチ子『女たちの幕末京都』、北川央「浅井三姉妹の長女―淀殿」(小和田哲男編『戦国の女性たち』)、田端泰子「『大阪冬・夏の陣』に収斂する淀殿の役割」(『女性歴史文化研究所紀要』11)など
- ^ 栗田元次『江戸時代史』より
- ^ 片桐且元の子とする説もある。
[続きの解説]
固有名詞の分類
淀殿に関連した本
- 北政所と淀殿―豊臣家を守ろうとした妻たち (歴史文化ライブラリー) 小和田 哲男 吉川弘文館
- 淀殿 戦国を終焉させた女 小林 千草 洋泉社
- 淀殿―われ太閤の妻となりて (ミネルヴァ日本評伝選) 福田 千鶴 ミネルヴァ書房
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