北越戦争とは? わかりやすく解説

北越戦争

読み方:ホクエツセンソウ(hokuetsusensou)

戊辰戦争のうち越後中・北部戦争


北越戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/10 19:34 UTC 版)

北越戦争(ほくえつせんそう、慶応4年5月2日1868年6月21日〉)は、戊辰戦争の戦闘の一つで、長岡藩(現新潟県長岡市)周辺地域で行われた一連の戦闘の総称である。


  1. ^ 新潟県立図書館「越後佐渡デジタルライブラリー」『越後国上杉景勝家督争合戦』
  2. ^ a b 上越市公文書センター, 2018 & p2.
  3. ^ 長岡藩が輸入された火器を購入したのは、ファーブル・ブラント商会ともスネル兄弟とも言われている。
    実際にどのような兵器を購入していたのかについて、現在残っている公文書中の記録には下記のように記されている。
    陸軍省大日記 「大日記 壬申 3月 諸省府県之部己」
    陸軍省 明治5年3月
    「三月廿七日 土曜 第三百八十二号 元長岡藩兵器処分伺 長岡藩被廃候仰兵器ハ兵部省ヘ可差出旨従太政官御達相成之柏崎県新庄権知事上京之砌右差出方同省ヘ相伺候処当分其侭可差置旨御差図ニ付今日迄差置候然ル処当節諸廃県兵器夫々新発田ヨリ営ヘ輸送可致ニ付右之長岡藩兵器モ同様同営ヘ輸送仕度仍テ目録相添此段相伺候以上 壬申三月廿七日 柏崎県参時馬伏断三 陸軍省御中 伺之通 三月廿八日 別紙 記 一ミニール銃 百五拾挺〜」
    この記録はここで途切れているが、ミニエー銃を装備していたことまでは確実なようである。
  4. ^ 新潟県小千谷市役所 報道資料3 平成24年2月16日
  5. ^ 大山柏『戊辰役戦史』上(補訂版)、時事通信社、1988年、850-862頁。 
  6. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第13冊』695頁 復古外記 越後口戦記 第四 明治元年七月二十八日 (編著者:太政官、豊原資清 発行所:内外書籍 発行:昭和5年(1930年)6月27日) (2018年10月21日閲覧。)
  7. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第13冊』746~747頁 復古外記 越後口戦記 第六 明治元年八月二日 (編著者:太政官、豊原資清 発行所:内外書籍 発行:昭和5年(1930年)6月27日) (2018年10月21日閲覧。)
  8. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第14冊』4頁 復古外記 越後口戦記 第七 明治元年八月四日 (編著者:太政官、豊原資清 発行所:内外書籍 発行:昭和5年(1930年)8月10日) (2018年10月21日閲覧。)
  9. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション『復古記 第14冊』23頁24頁 復古外記 越後口戦記 第七 明治元年八月七日 (編著者:太政官、豊原資清 発行所:内外書籍 発行:昭和5年(1930年)8月10日) (2018年10月21日閲覧。)
  10. ^ 英国公使館員の維新戦争見聞記』p112-113ローレンス・オリファント/ウィリアム・ウィリス 中須賀哲朗訳 1974/08/31 校倉書房


「北越戦争」の続きの解説一覧

北越戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 14:15 UTC 版)

八丁沖の戦い」の記事における「北越戦争」の解説

5月2日小地谷談判決裂後、5月10日長岡藩妙高高原榎峠を守る新政府軍攻撃開始し、北越戦争が始まった翌日より、朝日山争奪戦行い長岡藩奪取した。この戦いで長州松下村塾出身時山直八戦死する5月19日新政府軍長岡城陥落させ、以降長岡藩兵は奥羽越列藩同盟軍の一員として北越地区要所新政府軍対峙戦闘する状況続いた

※この「北越戦争」の解説は、「八丁沖の戦い」の解説の一部です。
「北越戦争」を含む「八丁沖の戦い」の記事については、「八丁沖の戦い」の概要を参照ください。


北越戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 02:19 UTC 版)

戊辰戦争」の記事における「北越戦争」の解説

詳細は「北越戦争」を参照 越後には慶応4年1868年3月9日開港され新潟港があった。戊辰戦争勃発に伴い新政府開港延期要請したが、イタリアプロイセン新政府要請無視し両国商人新潟港列藩同盟武器売却始めたこのため新潟港列藩同盟にとって武器供給源となった5月2日新政府軍岩村精一郎恭順工作仲介し尾張藩紹介で、長岡藩河井継之助会談した河井新政府が他藩に負わせていた各種支援受け入れ拒否し獨立特行の姿勢会津説得猶予嘆願したが、岩村はこれを新政府権威否定及び会津への時間稼ぎとして即時却下した。これにより長岡藩及び北越諸藩計6藩が列藩同盟参加したため、新政府軍同盟軍の間に戦端開かれた長岡藩河井により兵制改革進められ武装更新されていた。同盟軍河井指揮下で善戦したが、5月19日長岡城落城7月25日同盟軍長岡城奪還し新政府軍敗走させたが(八丁沖の戦い)、この際指揮とってい河井負傷した(後に死亡)。新政府軍すかさず長岡城を再奪取し4日後の29日長岡藩兵は撤退した。さらに新発田藩寝返り新政府軍軍艦上陸し米沢藩兵・会津藩兵が守る新潟陥落したため、8月には越後全域新政府軍支配下入った。これによって奥羽越列藩同盟洋式武器供給源失い深刻な事態追い込まれた。同盟軍残存部隊の多く会津へと敗走した

※この「北越戦争」の解説は、「戊辰戦争」の解説の一部です。
「北越戦争」を含む「戊辰戦争」の記事については、「戊辰戦争」の概要を参照ください。


北越戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/12/23 17:12 UTC 版)

雷神隊」の記事における「北越戦争」の解説

鯨波戦争が始まると新政府軍海道山道の分進策を採った。4月27日、鑑三郎率い雷神隊海道から進撃する新政府軍交戦地の利得て薩長突破を許さなかった。夕刻となったことで同盟軍番神堂退き新政府軍も一旦は東の輪まで進んだが兵の疲労大きく鯨波まで後退した28日には、新政府軍別働隊により山道会津軍が撃破されたため、桑名軍も撤退した。 北越戦争では5月10日長岡会津桑名藩朝日山榎峠奪取した新政府軍榎峠奪回するため朝日山確保目指し13日前線離れていた山縣有朋代わりに時山直八新政府軍率いて会津軍を攻撃する。しかし、鑑三郎率い桑名軍の猛射浴びたことで時山は戦死したその後両軍ともに攻め手欠き砲撃戦終始した。 それからも雷神隊攻防続けた戦局不利になる一方であり、新潟港制圧され長岡城陥落したことで、佐川官兵衛と共に会津退却する

※この「北越戦争」の解説は、「雷神隊」の解説の一部です。
「北越戦争」を含む「雷神隊」の記事については、「雷神隊」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「北越戦争」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「北越戦争」の関連用語

北越戦争のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



北越戦争のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの北越戦争 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの八丁沖の戦い (改訂履歴)、戊辰戦争 (改訂履歴)、雷神隊 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS