列藩同盟とは? わかりやすく解説

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奥羽越列藩同盟

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/20 08:04 UTC 版)

奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)は、戊辰戦争中の1868年慶応4年/明治元年)5月6日に成立した同盟で、陸奥国(奥州)・出羽国(羽州)および越後国(越州)の諸藩が、輪王寺宮公現入道親王[1] を盟主とした、反維新政府的攻守同盟、または地方政権[2]


  1. ^ 輪王寺宮に対して親王宣下が行われたのは得度以前であるため、厳密には入道親王にあたり太政官類典では「入道公現親王」との表記がなされているが、法親王と呼ばれることも多い(勝海舟『海舟日記』山崎有信 『彰義隊戦史』など)
  2. ^ a b c 奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)とは - コトバンク 日本大百科全書(井上勲執筆項)
  3. ^ a b c d 熊野秀一 2013, p. 41.
  4. ^ 竹ヶ原康祐 2018, p. 6-7.
  5. ^ 竹ヶ原康祐 2018, p. 6.
  6. ^ 竹ヶ原康祐 2018, p. 11.
  7. ^ 会津容保征討ヲ仙台中将ニ命ス」 アジア歴史資料センター Ref.A15071518800 
  8. ^ 沢為量・三位・ヲ奥羽鎮撫総督ト為シ醍醐忠敬・少将○忠順ノ子・之ニ副ス」 アジア歴史資料センター Ref.A15071519300 
  9. ^ 松平容保謝状ヲ松平慶永ニ託シ咎ヲ引キ自ラ責メ退隠屏居シ以テ徳川慶喜ノ罪ヲ宥センコトヲ請フ是日江戸ヲ去リテ会津ニ帰ル」 アジア歴史資料センター Ref.A15071475800 
  10. ^ 上杉斉憲伊達慶邦使ヲ会津ニ遣シ松平容保ニ勧ルニ降伏ノ事ヲ以テス尋テ仙台米沢二本松三藩ノ使者会津ニ会シ前議ヲ申ス」 アジア歴史資料センター Ref.A15071475800 
  11. ^ 『南摩綱記筆記 復古記十二巻』権十郎曰、会、庄一致、而後米沢を説諭セン、米同盟セハ、仙ハ直ニ同盟セン、仙、米会、庄同盟セハ、奥羽諸藩一言ニシテ同盟スヘシ、然後、速ニ兵ヲ江戸ニ出シ、江戸城ヲ以テ軍議本営トシ、諸藩ノ兵を合シテ凶徒ヲ掃ヒ、君側ヲ清ムヘシ、如此ナレハ、則唾手シテ天下ノ事成ル可シ、是寡君江戸ニ在ル時ヨリノ持論ナル故ニ、密使ヲ以テ貴藩ヘ謀ラント、已ニ菅、本多等ニ命シタレトモ、病ニ臥シテ発スルコト能ワス、遅延今日ニ及ヒタリ、今卿等来テ此約成ル、何ノ幸カ之ニ若ンヤト、庄両候、八之丞、平介ヲ城内ニ召テ、懇篤ノ面命アリ、又賜物ヲ辱フス、平介庄藩戸田文之助ト共ニ米藩ニ赴キ、同盟ヲ謀ル、八之丞ハ菅、本多ト共ニ四月廿六日会津ニ帰結シ、一両人を撰テ彼此互ニ交萬シ、密議ヲ預リ聞クコトヲ約ス、庄ヨリハ物頭戸田文之助、軍事掛吉野遊平穉松ニ来萬ス、我藩ヨリハ佐久間平介、鶴岡ニ往テ寓居ス、後平介故アリテ帰国、上島良蔵之に代ル、是同盟ノ濫觴ナリ
  12. ^ a b c 維新期の会津・庄内藩、外交に活路 ドイツの文書館で確認”. 朝日新聞. www.asahi.com (2011年2月7日). 2011年2月9日閲覧。
  13. ^ 『仙台藩記』土佐云 謝罪嘆願被致ニテ開城某主の首級を差出候哉 平馬答 容保城外に謹慎ハ勿論ニ候得共首級ハ差出兼候伏見ニテ大概戦死生残ル者僅一両輩是等ハ皆国家盡尽忠ノ者ニテ斬首ニ及候ハバ国中同様事却て被可申全体徳川慶喜一身ニ引受壱人ノ罪にて他将卒の誤ニハ無之趣意を以謝罪嘆願御採用の上ハ会藩等ノ如キハ己に罪状消滅今更征討ヲ蒙ル謂レ無之依テハ首級迄ハ差出兼申候 土佐云 其趣ニテハ執達致兼候尤御受取ニハ相成魔敷其節ハ何様所置致候哉 平馬云 一国死ヲ以守申候 土佐云 一国拳テ死ノ覚悟ならは僅一両輩ノ死ヲ以一藩助命相成候ハバ一ツ二ツノ首級ハ安キ事に可有之ト申候其折傍座致居候
  14. ^ a b 慶応4年4月29日(1868年6月19日)、勝海舟日記に「此頃彰義隊の者等、頻に遊説し、其倍多く、一時の浮噪軽挙をとし、官兵を殺害し、東臺に屯集殆ど四千人に及ぶ、其然るべからざるを以て、頭取已下に説諭すれども、敢て是を用ひず、虚勢を張て、以て群衆を惑動す、或は陸奥同盟一致して、大挙を待と唱へ、或は 法親王奉戴して、義挙あらむと云、無稽にして無着落を思はず、有司もまた同ずる者あり、甚敷は 君上の御内意なりとして、加入勸むる者あり、是を非といふ者は、虚勢を示して劫さむとす。」と記し、この時点で彰義隊は「陸奥同盟」と一緒に新政府に反乱を起こすことや、輪王寺宮を奉戴して政権奪取することを企図していたことが分かる。また慶応4年閏4月29日の時点で江戸の勝海舟はすでに「陸奥同盟」という言葉を用いており、輪王寺宮を奉戴してのクーデター構想もすでに彰義隊が江戸で喧伝していたことが分かる。国立国会図書館デジタルコレクション『海舟全集 第九巻 (海舟日記其他)』144~145頁 「海舟日記」閏4月29日 (著者:勝安芳 出版者:改造社 発行:昭和3年(1928年)11月5日) (2018年10月8日閲覧。)
  15. ^ 『東北征討始末五・奥羽征討二 国立公文書館デジタルアーカイブ』今度奥羽列藩会議於仙台表告 鎮撫総督府欲以修盟約執公平正大之道同心協力上尊王室下撫恤人民維持皇国而安宸襟仍条例如左 一 以伸大義于天下為目的不可拘泥小節細行事 一 如同舟渉海可以信居以義動事 一 若有不義危急之事比隣各藩速援救可報告総督府事 一 勿負強凌弱勿営私計利勿漏洩機事勿離間同盟 一 築造城塁運搬食糧不得止勿漫令百姓労役不勝愁苦 一 大事件列集儀、可帰公平之旨、細微則可随其宣事 一 通謀他国、或出兵隣境、可報同盟事 一 勿殺戮無辜、勿掠奪金穀、凡事渉不義者可加厳罰事 右条々於有違背者、則列藩集儀、可加厳譴者也、慶応四年閏四月
  16. ^ a b c d e 熊野秀一 2013, p. 40.
  17. ^ a b c d e 熊野秀一 2013, p. 42.
  18. ^ ニューヨーク・タイムズ 1868年10月18日号に「JAPAN: Northern Choice of a New Mikado(北部日本は新たなミカドを擁立した)」とある。
  19. ^ 「菊池容斎史料」「蜂須賀家史料」 「日光屋史料・鶴ヶ島」 「旧仙台藩士資料」 これらを藤井徳行は東北朝廷閣僚名簿と表現している(熊野秀一 2013, p. 40)
  20. ^ 輪王寺宮は明治天皇の祖父仁孝天皇猶子
  21. ^ 熊野秀一 2013, p. 43.
  22. ^ 先代水野忠精は、老中首座であったが慶応2年(1866年)に当時数え十一歳であった長男の忠弘に家督を譲り隠居している。
  23. ^ 同盟加入当時、藩主水野忠弘も前藩主忠精も上洛しており国元には不在。筆頭家老水野元宣ら重臣が図って同盟加入を決めた。
  24. ^ そもそも新政府方であったが、孤立孤軍を恐れて同盟に参加し、のちに脱退した。
  25. ^ 圧迫を受け参加はしたが、同盟の出兵依頼に対して順延を続け、新政府軍が迫ると恭順した。
  26. ^ 元々新政府側であったが、庄内藩に圧倒されて同盟に参加した。のち新庄藩は勝手に戦線を離脱し、これに怒った庄内藩が新庄を攻め、城と市街は灰燼と化した。新庄藩一同は秋田藩に保護され新政府方となっている。なお、藩主正実の実母桃令院は薩摩藩主島津重豪の娘であり、幼くして家督を継いだ正実を補佐しており、この時期も存命である。
  27. ^ 信勇は京都におり新政府へ恭順の意思を示していたが、国元にいた前々藩主の安藤信正が指揮を取って同盟に加わった。
  28. ^ 日和見政策を行っていたが、藩内抗争の末に新政府方が勝利した。直後に榎本武揚らの旧幕府軍が来襲し、藩は陥落し藩主らは本土の津軽弘前藩の庇護を受けた。
  29. ^ 陸奥国下手渡領の国家老らが参加したが、この時点で藩の祖地であり飛地であった筑後国三池領側の藩士らの意向により、藩主は京都に入り、新政府方に恭順していた(国家老も江戸まで藩主を見送っている)。
  30. ^ 下手渡藩は下手渡と旧領である筑後国三池に半分ずつ所領を持っており、戊辰戦争に際しては三池側の藩士の主張に藩主や下手渡にいる重臣たちも同意する形で新政府への恭順が決定され、3月には藩主が下手渡から京都に入り、同藩は新政府軍に参加していた。列藩同盟参加はその後のことであり、8月になって新政府から下手渡藩に対し、奥羽鎮撫を命じられたことで同盟側の知るところとになった(水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年)P264-266)。
  31. ^ 藩主立花氏の本家
  32. ^ 熊野秀一 2013, p. 39-40.


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