西郷家とは? わかりやすく解説

西郷氏

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/10 08:12 UTC 版)

西郷氏(さいごうし)は、日本の姓氏。「西郷」という全国各地に所在する地名を名字とした典型的な地名姓であり、複数の家系の武家が歴史に名を残している。


肥前西郷氏

  1. ^ 有馬尚鑑の子。

注釈

  1. ^ 平瀬治右衛門の三男。
  1. ^ 大内惟時の子[要出典]
  2. ^ 肥前大村藩主大村純長の五男。
  3. ^ 交代寄合・大田原清勝の四男、寿員の甥。
  4. ^ 会津藩士・志田貞二郎の三男。
  1. ^ 高梁市 2012.
  2. ^ a b 小田部雄次 2006, p. 324/354.
  3. ^ 現在増永城跡地には西郷公民館が所在し、敷地内に「西郷南洲先生祖先発祥之地」と刻まれた記念碑が立っている


「西郷氏」の続きの解説一覧

西郷家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 18:39 UTC 版)

篤姫 (NHK大河ドラマ)」の記事における「西郷家」の解説

西郷吉之助さいごう きちのすけ) (西郷吉之助→西郷隆盛) 演:小澤征悦 御小姓与と呼ばれる下級藩士のひとり。尚五郎とは身分越えた友人。 郡方書役助(こおりかたかきやくたすけ)を務めていた際、農民窮状を見かねて今和泉領主島津忠剛直訴行い、それが元で今和泉家は取り潰し寸前追い込まれた。島津斉彬藩主相続支持し、後に建白書認められ江戸詰一員加えられ、庭方役と呼ばれる斉彬の側近取り立てられる篤姫将軍家輿入れの際は、その嫁入り道具調達一切取り仕切った篤姫輿入れ後は、幾島・小の島と共に一橋慶喜将軍継嗣政治工作関ることになる。しかし、慶喜将軍継嗣工作失敗。斉彬の死後幕府追われる身となり、藩上層部からも見捨てられるとなった西郷同志の僧・月照錦江湾身を投げるがひとり生き残り表向き死んだことにされて奄美大島へ流された。 島津久光上洛決断すると、京の情勢に詳しい者として帯刀推薦され帰郷果たしたその後久光謁見するが、その率兵上洛否定した挙句無位無官久光を「地ごろ」(田舎者)と表現したために久光怒り買ったその後大久保から久光が斉彬の遺志継ごうとしている事を聞いて上洛する事を決断本隊先行して下関発ったが、命に背いて大坂赴いたために久光怒り買って再び遠島となった。しかし京都勢力挽回しようとする久光思惑によって再復帰し、軍賦役として長州藩との戦い活躍する。そして帯刀坂本龍馬らと協力して薩長同盟締結した慶喜将軍就任すると、亡き斉彬の遺志実現した喜び列侯会議期待寄せていたが、会議頓挫したことで慶喜将軍家自体失望し武力倒幕論に傾き大久保岩倉具視と策を練り幕府挑発するために江戸城に火を放たせた。そして鳥羽・伏見の戦い薩摩軍を指揮して勝利江戸攻めでは官軍の総参謀任命される徳川家倒してこそ新し時代開けると信じ幾島から天璋院からの手紙を受け取って感涙しながらもその嘆願固辞した江戸に入ると勝麟太郎交渉し一度決裂しかかるが、天璋院の斉彬からの手紙を見せられてかつての自分思い出し江戸城無血開城承諾した維新後隆盛名乗る新政府設立後間もなく薩摩下野するが、死の間際帯刀からの手紙を受けて復帰し廃藩置県などの改革断行大久保らが外遊中の留守政府を預かるが、間もなく大久保らを憚って再度下野天璋院暇乞いをして鹿児島帰国西南戦争自刃した。 西郷信吾さいごう しんご) (西郷信吾西郷従道) 演:水谷百輔 西郷の弟。名は従道。兄とは違って血気盛ん性格有馬新七同調して同志たちとともに京都寺田屋京都所司代暗殺謀ったその後旧幕府軍と戦闘では、兄とともに薩摩幹部として列席する西郷吉次郎さいごう きちじろう) 演:真島公平第6回鈴木太郎西郷の弟。弟の信吾郷中仲間顔を出している。 西郷吉兵衛さいごう きちべえ) 演:五王四郎 西郷の父。西郷スガ宴席出席している。 スガ 演:森脇由紀 西郷の妻。尚五郎大久保らに祝福されながら結婚した政子(まさこ) 演:高岡雅子 西郷の母。西郷スガ宴席出席している。 西郷龍右衛門さいごう りゅうえもん) 演:小泉龍彦 西郷祖父西郷スガ宴席出席している。 コト / タカ 演:室伏由紀江(コト)/ 青木琴子タカ西郷の妹。西郷スガ宴席では来客への給仕担当していた。

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西郷家

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八重の桜」の記事における「西郷家」の解説

西郷頼母さいごう たのも) 演:西田敏行 会津藩家老会津赴いて間もない容保に近く仕え会津藩藩風仕来りなどを教育した幼少期八重とは模擬戦である追鳥狩の際に草履落とされ妨害された際にその張本人八重であると知った際に初対面激怒した成人した八重再会した時は、女性砲術活躍する場が無いことなどお互いに本音語り合え存在となった。藩の兵制改革いち早く賛同し、覚馬を取り立てた幕府京都守護職要請に際しては、容保に要請拒否強く求め守護職就任後速やかな辞職求め続けたことで容保の不興買って家老職解かれ謹慎命じられる(この事を八重明かしている)。 鳥羽伏見での敗戦後家老復職し新政府への恭順主張した会津戦争勃発する白河方面総督任されるが、寡勢新政府軍敗北するその後鶴ヶ城帰参再度恭順勧めたが、周り重臣徹底抗戦主張している中で孤立し白河総督の任を解かれた。籠城戦となると登城するが、次第会津絶望的な状況になると会津存続願って改め恭順勧めるが、徹底抗戦主張する多く重臣非難され、容保からも意見聞き入れられることはなく、萱野権兵衛への伝令役という形で実質的に城を追われた。また、鶴ヶ城籠城戦の際に、八重に「にしの鉄砲は城を守る為に使え」と助言した役目終えると会津離れ函館戦争身を投じるが、それも敗北に終わると生きて会津踏みつぶしていった者達が作る世を見届ける決意する維新後会津訪れた八重再会しこれまで生きてきた経緯語り会津戦争から立ち上がり勲章もらった八重一度散って春になれば再び花を咲かせる例え会津希望であることを示唆した西郷千恵さいごう ちえ) 演:宮崎美子 頼母の妻。 城下新政府軍襲来すると、会津無実訴え新政府軍非道な力には屈しないことを死を持って示すのが西郷家の役目殉死大儀家族諭したのち、一家と共に自刃して果てた西郷眉寿(さいごう みす) 演:中島亜梨沙 頼母の妹。 西郷由布さいごう ゆう) 演:玄里 頼母の妹。 西郷細布さいごう たえ) 演:田中明 頼母長女。 母や一と共に自刃するが、死に切れずに瀕死の状態でいたところを板垣退助発見され、彼女の願いを容れた板垣によって止め刺される西郷瀑布さいごう たき) 演:豊田留妃 頼母次女西郷律(さいごう りつ) 演:久松夕子 頼母の母。 西郷十郎さいごう きちじゅうろう) 演:関ファイト 頼母長男。 母・千恵から父・頼母と共に働くよう言われたため、一族自刃からは逃れた西郷常磐さいごう とわ) 演:田嶋頼母四女

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「西郷家」を含む「八重の桜」の記事については、「八重の桜」の概要を参照ください。

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