稲垣氏とは? わかりやすく解説

三河稲垣氏

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/16 14:51 UTC 版)

稲垣氏(いながきし)は、武家華族だった日本氏族戦国時代三河国の土豪として松平氏に仕え、江戸時代には2家が譜代大名家(廃藩志摩国鳥羽藩3万石と近江国山上藩1万3043石)に列し、維新後2家とも華族の子爵家に列した[1]


稲垣重賢
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
重宗氏俊[稲垣林四郎家]
氏連
 
 
 
[鳥羽藩主家]
長茂1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
重綱2[旗本]
重大
[稲垣平助家]
則茂
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
重昌茂門[旗本]
重氏
[山上藩主家]
重定
忠清→牧野忠清
[系 1]
[稲垣藤八家]
藤八
 
 
 
 
 
 
 
 
 
重昭3[旗本]
昭友
重房(略)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
重富4[旗本]
昭倫
定享茂快
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昭賢5昭辰定計*定計*茂光
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
昭央*6昭央*定時定賢定邦定淳重恭杉本鉞子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長以7長守*
 
 
 
三浦前次太篤本多忠考稲垣成方
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長守*長続8
[系 2]
 
 
 
勝*勝*
 
 
 
稲垣太清上杉義順
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長興長剛9[子爵家]
太祥⑧/⑩
民子
 
 
 
奥平松平銀太郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長明10重興重厚
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長行11長敬*長完重祥重光
 
 
 
[子爵家]
長敬*12
奥平昌服
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長昌13
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長賢14重兼
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長克15長映長利
 
 
 
長範16
  1. ^ 越後長岡藩主牧野忠成の5男。家督相続前に離縁、後に交代寄合・三根山牧野家を相続。
  2. ^ 越後高田藩主榊原政永の6男。
  1. ^ 小田部雄次 2006, p. 328/342.
  2. ^ 伊勢平氏は著名であるが、伊勢源氏を称するのは珍しい。また異説として、三河稲垣氏の遠祖は、藤原氏であったするものもある(稲垣平助家・家譜)。
  3. ^ 世界大百科事典 第2版『稲垣氏』 - コトバンク
  4. ^ a b c 新田完三 1984, p. 574.
  5. ^ a b 新田完三 1984, p. 575.
  6. ^ 新田完三 1984, p. 575-577.
  7. ^ 新田完三 1984, p. 866-868.
  8. ^ 新田完三 1984, p. 576/868.
  9. ^ 浅見雅男 1994, p. 24.
  10. ^ 小田部雄次 2006, p. 13-14.
  11. ^ 小田部雄次 2006, p. 328.
  12. ^ 小田部雄次 2006, p. 342.
  13. ^ a b c 華族大鑑刊行会 1990, p. 337.
  14. ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 244.


「三河稲垣氏」の続きの解説一覧

稲垣氏

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小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「稲垣氏」の解説

本藩である越後長岡藩最大門閥連なる文化元年1804年)、稲垣氏の増長慢心藩主怒り家老罷免改易取り潰し)。のちに許されたが、大きく格式下げた。 稲垣氏の遠祖は、伊勢国住人であったが、16世紀頃三河国宝飯郡渡来して、地侍化したのである本姓清和源氏とするものが多数であるが、平姓藤原姓とするものもある。小諸家臣稲垣氏は、源姓称している。 稲垣氏の嫡家は、志摩国鳥羽藩主であるが、牧野康成仕えていた稲垣長茂が、繰り返し殊功をあげたため、徳川家康の目にとまり召し出しを受け、諸侯列したこの分家となる稲垣平助家は、長岡藩牧野氏家老首座連綿となり、その分家の稲垣太郎左衛門家も、家老職抜擢され、後に家老連綿家柄となった。このほか稲垣氏には支族長岡藩内にあり、本藩の御家中において、最大門閥勢力である。 小諸家臣稲垣氏の家系図由緒書は、詳細なものが藩に提出されいたものとみられるが、公開されている古文書目録等には、簡約なものしか収載がないため、小諸藩文書などの記事寄せ集める次のような家系由緒であったことがわかる。 長岡藩家老稲垣太郎左衛門家庶子である稲垣左衛門は、分家として分出され長岡家臣(足軽頭200石)となった(のちに加増100石があり計300となったとみられる)。 長岡家臣の稲垣左衛門惣領稲垣左衛門300石)は、一説によると謀反疑いにより、浪人となり、与板暮らしていたが、与板藩主・牧野氏仕官して、給人50石級家臣となったその後稲垣左衛門家は惣領不行跡により改易取り潰しとなった。取潰された年は不明であるが、元禄から享保前期にかけての小諸藩一次史料中に記事存在する。この稲垣左衛門家に名跡再興あったか否かは史料がなく、不明である(後述稲垣貢家を参照のこと)。 稲垣左衛門家の分家が、稲垣源太左衛門家であり、小諸藩主牧野氏家祖が、長岡から、与板分家立藩にあたり番頭として移動した当初与板藩には用人加判設置されていなかったので、番頭家老に次ぐ役職である。 弟家系稲垣源太左衛門家は、与板立藩以来家老職に次ぐ役職勤めることが多かったが、正徳5年1715年)に初め家老職抜擢され退役までに計320石となる大加増受けた用人家柄格式の者を家老職就任させることもあったが、ここまで加増はないため、用人家柄から、家老家柄格式昇格があったことが理由と見られるその後3代享保4年1719年)、宝暦2年1752年)、寛政元年1789年)にそれぞれ家老職就任した享保4年家老職となった稲垣氏は、真木氏400石が家を分けて隠居し若輩真木左衛門小諸市誌には右衛門記載)が320となったことで、家臣筆頭となった家老稲垣源太左衛門正良は藩主康満が側室儲けた女子養女迎えて、本藩である長岡藩家老首座稲垣平助家に嫁がせたほか、寛政2年藩主康満が駿河国浪人水野兵庫女子に産ませた男子養子として迎え元服のうえ、稲垣此面(春之丞)と通称させたが、家督相続前死亡した家老家柄となって4代目稲垣源太左衛門(正良)は文化元年1804年7月18日御内存により退役隠居命じられたが、家督相続認められ改易取り潰しとなった文化3年1806年)、実子とみられる惣領稲垣此面某に名跡再興認められ持高50石、中小姓列した。 しかし、文化6年町方女(まちかたおんな)と身持ち崩し稲垣貢宅でおこした不祥事により15石を減石され持高35石、中小姓末席降格された。文化10年家老罷免され父と共に許されて元席となり、後に班を進めて番頭となった時に持高63石、役高加増93石の計156であった家老職であった父が許されても家禄持高席次元には復さなかった。しかし、文政年中ごろに僅かではあるが加増となり、併せて格式昇格となり、持高67石・給人連綿家系となった持高は4石加増であるが、給人地を込み考えると実質、約10石の世襲家禄加増となった。9代藩主による改革後持高50石(給人格)。 稲垣此面某か家督相続した養子稲垣市右衛門は、嘉永6年1853年)、町方敷地昼夜問わず占拠して通路塞いで私的利用をしたことにより、同年隠居命じられて、持高15石を減石の上、2男に家督相続許された(持高35石)。減石理由長男廃して2男に家督相続させたことではない。9代藩主によって、隠居減石命じられたが、家督相続後稲垣此面正利異に次郎)は、9代藩主用いられて、班を進めた。表中小姓勤めた後に給人席を経て2度にわたり加増奏者格(持高70石)に格式回復した小諸騒動時、加藤牧野馬派属して参政用人加判)に抜擢された。彼らが失脚時、元席戻ったが、入牢謹慎などの処罰は受けなかった。そして民政幹事小諸町奉行郡奉行)に格下げとなったが、まもなく少参事用人加判)に栄転した。小諸藩騒動による経費増を徴税強化乗り切ろうとしたが、稲垣此面正利は、これに反発批判した支配層を弾圧した実務責任者であった小諸家臣稲垣貢家の初見は、明和4年1767年)、稲垣貢が養父稲垣貢から家督相続した記事記載した分限帳である(時に80石、寛政4年から奏者)。実家真木九馬左衛門家(実父真木造酒右衛門)である。 当家は、兄家系稲垣左衛門家の名跡継承している家系なのか、もしくは小諸藩家老稲垣氏から分家として分出され家系なのかは、史料がなく不明である。 小諸家臣稲垣貢家は持高70石で給人側用人などを勤めていたが、当家文化5年1808年12月8日に、町方女(まちかたおんな)に屋敷出入り許し稲垣此面等に当家屋敷内不祥事をおこさせたことを責められ文化6年一時失脚その後大きく班を進めて家老に次ぐ重臣用人加判職に抜擢された(文化12年分限帳用人、180石、稲垣左一兵衛とあり)。 文政11年1828年)、稲垣貢家(稲垣次)は、稲垣此面から養子入りした男子家督相続させて、給人となった内室(妻)は、文政7年輿入れした真木2女であるため、婿養子ではなかった。前後する用人抜擢され稲垣左一兵衛から、稲垣次に家督相続した記事については、史料がなく不明である。 天保9年1838年)、稲垣源次家族出奔家出して騒動になり、家内取締責められて、一時降格されたが、まもなく元席に戻った。この稲垣源次とは、誰の改名異名なのかは、史料がなく不明である。小諸家臣稲垣貢家の家督相続した稲垣左一兵衛重禮は、相続時の持高94石で、家の格式奏者格・役職給人であったが、9代藩主用いられ持高100石・役料と80俵となり、元治・慶応年間に、家の格式番頭格で、役職用人加判に班を進めて家老職に次ぐ地位まで進んだ小諸騒動前期には、役職にあり康済を廃することには反対する一方で牧野八郎左衛門太田に対して批判的であった真木要人則道とは従兄弟続柄にあり、当初はともに中間派的立場であったが、一方稲垣加藤牧野馬派に、他方真木牧野八郎左衛門太田派に組み込まれていった稲垣左一兵衛重禮は、小諸騒動渦中病気のため致仕となり死亡した。父から家督相続した稲垣左織重為は、小諸騒動後期加藤牧野馬派属して小諸騒動によって謹慎となったが、明治3年6月19日赦免となり、復権して少参事となった稲垣左織重為は、古畑氏等とは異なり謹慎のみで閉門懲戒処分受けていない。 また小諸家臣斬首謀議参加はしているが、斬首執行難色示してたとする指摘一部にある。この指摘正しければ謀議参加した連帯責任問われたことになる。よって稲垣氏は、家老家柄ありながら改易取り潰し経験して名跡再興となった稲垣氏と、この同族である稲垣貢家の稲垣氏の2家があり、幕末・維新期には士分上禄2家を数えたが、化政期以降から廃藩までは、家老末裔の稲垣氏(通称源太左衛門此面市右衛門等。中小姓末席馬廻り格まで格式下げられたのちに、紆余曲折経て幕末奏者連綿まで戻す)より、稲垣貢(通称源次・左織・左一兵衛等。奏者格から幕末番頭連綿昇格家系のほうが格上であった。 稲垣氏2家は、加藤牧野馬派属したが、廃藩時少参事用人加判)・士分上禄名を連ねて重臣の列にあった稲垣左織重為は、廃藩後東筑摩郡長に就任したが、長野県郡長の中では在職期間が最も長かった在職期間は明治12年から同24年)。また明治15年には南安曇郡長を兼任した同氏先祖代々墓地小諸市古城二丁目南側隣地(同市乙)には存在しない養子稲垣乙丙農業学者東京帝国大学農学部前身名誉教授帝国農科大学教授)は、東京都多摩霊園に眠る偉人著名人掲載があり、養父・重為の姓名明らかにされている。他方先祖家老職勤めた稲垣此面正利先祖代々の墓は、小諸市古城二丁目南側隣地(同市乙)に存在するほか、江戸にも壇寺と葬地持っていた。

※この「稲垣氏」の解説は、「小諸藩牧野氏の家臣団」の解説の一部です。
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