いえ‐がら〔いへ‐〕【家柄】
家柄
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 06:17 UTC 版)
1886年(明治19年)、東京市牛込区(現在の東京都新宿区)新小川町の医者の家に4人兄弟の末っ子として生まれた。父・藤田嗣章(つぐあきら)(1854 - 1941年)は、大学東校(東京大学医学部の前身)で医学を学んだ後、軍医として台湾や朝鮮などの外地衛生行政に携り、森鷗外の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物。祖父の藤田嗣服は元田中藩士。曽祖母は江戸時代の文人画家春木南湖の血筋である。兄の嗣雄(1885 - 1967)は朝鮮総督府や陸軍省に在職した法制学者・上智大学教授で、陸軍大将児玉源太郎の四女と結婚。また、義兄(姉たちの夫)に、父の元部下でのちに陸軍軍医総監となった中村緑野(中原中也の名づけ親)、芦原甫の養子・信之(医師)がいる。小山内薫は嗣治の従兄、舞踊評論家の蘆原英了と建築家の蘆原義信は甥にあたる。又、遠い親戚に千葉雄大がいる[要出典]。
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家柄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/20 03:27 UTC 版)
琉球王朝時代から続く紅型三宗家(知念家、城間家、沢岻家)のうちの一つである。 三宗家の中で沢岻家が最も古く、知念家はその沢岻家に次ぐ名家。祖は唐紙知念であり、彼が1766年に中国から唐紙型の新技法や印金紙等を伝えたとされている。知念家は初め、紺屋(染め物屋)であったが後に紅型の型付(かたちき)も兼業するようになった。 唐紙知念には3人の息子がおり、長男が知念績高(長男知念筑登之親雲上)。績高が紅型を継がずに三線の世界へ進んだことで、 次男と三男が紺屋(紅型)を継いでおり、現在も次男知念筑登之親雲上(チクドゥンペーチン)の筋、知念紅型研究所及び知念紅型工房の両家が繋げている。 知念績弘は次男知念筑登之親雲上の次男筋の家系「上儀保知念」5代目にあたる。 次男知念筑登之親雲上長男筋である「下儀保知念」は知念紅型研究所の知念貞男や知念冬馬の家系で、これは知念家の家譜や位牌、聞き取り調査したことで判明している。 なお、知念家は数百年前から唐紙や紺屋を営んでは来ているが、長男知念筑登之親雲上である知念績高から数えての何代目という数え方をしており、知念績高より以前の先祖については何代存在していたのかは殆ど不明である。
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家柄
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「ハットフィールド家とマッコイ家の争い」の記事における「家柄」の解説
タグ・フォーク川を隔てて、ハットフィールド家はウェストバージニア州側に、そしてマッコイ家はケンタッキー州側に住んでいた。どちらの一家もタグ渓谷に最初に定住した先駆者達の一部である。双方は製造業と密造酒の販売に携わっていた。またどちらも南北戦争時は、南部連邦支持者のゲリラ活動に従事していたことが明らかとなっている。ハットフィールド家はその性分から「悪魔」とも呼ばれた、ウィリアム・アンダーソン "デビル・アンス" ハットフィールド(1839年生-1921年没)が率いており、マッコイ家はランドルフ "オル・ラヌル(ランドール)" マッコイ(1825年生-1914年没)によって率いられていた。 一家はどちらも富んだ土地と立派な社会的地位を獲得していた。ハットフィールド家はマッコイ家よりも裕福であり、政治上の良き縁故もあったが、両一家共に申し分のない財産を所有していた。
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